というわけで、今回で『常識欠如』の更新は最後になります。……まぁ、明日はたぶん、あとがきを書くと思うので、最後というかなんというか……。
ともあれ、どうぞ。
ここに住まうようになってから何年になるだろう? ネリウムはこの近辺でこんなものを見たことが無かった。
次元鳥の反応を辿ってきてみれば、目の前には自分より遙かに大きな化け物が居た。ちなみに、探していた鳥は既に飛び去っていたようだ。
「……巨大な灰色の鬼……でも、もう虫の息よねぇ」
愛用の銃を片手に、大木のような腕に触れる。そこで、彼女はあることに気が付いた。
「ふむ……堅さが明らかに欠けてる。それにこの傷跡は……間違いなくコトネだわぁ」
損傷を見ただけで、ネリウムの頭の中では簡単な話の筋書きが浮かび上がってきた。
魔物にしても精霊にしても、死んだら気が付けばそこから消えているというほど、あっさり消滅してしまう。なのに、傷ついた魔物がこちらに辿り着いているということは……考えられるのは、この鬼が神隠しを受けたということ。そんな芸当が出来るのは、一人しか居ない。
ネリウムは額を数回指で打ち付け、軽く溜め息を吐いた。
「これは……リョウ、仕事に失敗したのねぇ」
今のところ目立った問題は起こっていないと思うが、今後の状況次第では注意を呼びかける必要がある。最悪、リョウにはこちらに戻ってもらうくらいの覚悟が要るだろう。
「……まぁ、目立った問題がなければ、それはそれってことでいいわ。実際、これ以外に流れ込んだ物はなさそうだしねぇ」
ネリウムにとって、リョウのことなどさして問題ではないようだ。彼女にとっては研究材料が目の前に転がっている、という当面の問題くらいしか頭になかった。
彼女はあくまで作り出すだけ。創造を楽しみにして生きるだけ。法的な措置が彼に取られるとしても、知ったことではないのだ。
この事実を知っているのは、今のところ彼女一人。だが、目の前に横たわる研究サンプルの確保で夢中になり、眼中から消えてしまうだろう。
変人はこの件に関して全く考えを向けていないことを、彼は知る由もないのだ。
昼間の強い日差しに照らされた新聞の記事には、あまり目を向けたくないものが載せられている。
「うーん……」
難しそうな顔をしながら記事を見つめ、涼は嘆息を吐き出した。
まだ体を動かせば痺れるような痛みが走る。何より全身が包帯だらけで、傷が少ないのはそれこそ頭部くらいである。
昨夜この病院に運ばれてきた涼は、そのまま即入院ということになった。異世界に関わり始めて、かれこれもう四回目の入院である。だが、さすがにここまで酷くなったことは無かった。
白い部屋の隅でだらだらと眠っていたカラナは目覚めてすぐに涼の元にやってきて、「どうしたの?」と眠たそうに目を擦りながら訊ねてくる。
「いや……予想はしてたんだけどさ」
そう言って新聞のとある記事を指さすと、カラナはめんどくさそうに目を向けた。
記事に載せられていた写真には、とある瓦礫の跡と周辺の状況が写されている。タイトルや文章には、テロによる爆破事件、巨大な影を目撃した、怪我人が病院に搬送されたなどといった物騒かつあまり考えたくない文字が見つかった。
「……誰かが爆弾でも使ったとか考えないと、説明つかないよなぁ……」
実はカラナが居なかったときに、どこから情報をかぎつけたのか取材に来たと言った人が現れた。つまり、この記事の怪我人というのは涼のことだろう。
同様に琴音の方にも目がいくだろうが……あっちの取材は、要領を得なくて相手にされないこと請け合いだ。涼も、当時のことを覚えていないと言っておいたので、真相が表にされることは無い。
しかし、あの巨大な魔物を目にした人は、少なからず居る。そうでなくともこの事件は、テロの一言で済ませることの出来ない奇異な状況である。どんな形であれ異常な現象は、最低でもこの近辺の住人には認知されてしまったのだ。
……ただ、涼がまた誰の目にも触れられないように対処していけば、この事件は自然消滅する。それまでは、琴音が言っていたように、まさに祭りのような状況になるだろう。
「この祭りが続いている限り、いろんな憶測が飛び交って……この事件が起こった周辺住民は、不信感に戸惑うことになる。あれを見た人はトラウマにもなりかねない……」
それと、結果的に筑士は琴音との勝負に負けたとはいえ、やりたかったことを全てやり遂げていた。彼なりの復讐として、大混乱を招く種だけを残していった。
「たぶん、琴音はあんだけ大騒ぎできて満足だろうし……筑士も計画通り。河見さんはよくわからないけど……損をしたのは、俺だけか」
「羽の件は別として」
「……だから余計に納得がいかないんだよなぁ……」
せめてもの罪滅ぼしなのだろうか。筑士は昨日の間にカラナと協力してばらまかれた次元の羽を回収して回っていた。涼は当面の間、療養に費やすことができる。カラナ自身も確認を取っており、次元の羽は全て籠の中にある状況だ。
だが、それでも問題は残っている。
「……この件であっちの世界に問題が起こっていたら、俺、どうなるんだろ」
深く溜め息を吐いて、涼は眩しすぎる外の景色に目を向けた。
こちらのことはもう自分一人では収拾がつかないほど大きな問題になりつつある。では、神隠しと召還を何度も行い、異世界の方に影響は現れていないのだろうか? もし現れていれば……最悪、強制送還される可能性も高い。
……と、涼は深くあれこれ考えているが、少なくとも異変の調査をしている変人は全く無関心なので、現状は何も問題なかったりする。
そうとは知らずに深く肩を落とす涼に、カラナは小さく笑いかけた。彼女の笑顔は、涼でも滅多に目にしないものだった。
「そのときは、そのとき」
「……え?」
不思議そうに首を傾げた涼の前で、カラナはいつものように気怠そうな表情で辺りをゆっくりと飛び回り始めた。
「涼がここに居たいなら、抗えばいい。向こうのことなんて、無視すればいい」
「おいおい……妖精がそんなこと言って大丈夫か?」
「私の『欠損』は、涼の力。力をどう使おうと使い手次第。私には関係のないこと」
カラナのその言葉に、涼は苦笑した。
「そう言い切る割に、昨日は珍しく必死な顔だったな、お前」
「…………」
「……無視か」
ま、そういうヤツが居るから、俺はここに居たいんだけどな。
言葉を続けるのは止めておいて、涼は新聞を折りたたみ、ベッドの上に寝転がった。そうして、細い瞳で天井を見上げる。
病室はあの亜空間のように真っ白だが、ここには自分一人ではない。たったそれだけの違いなのに、涼は安堵の表情を浮かべることができた。
差し出された新聞を眺めながら、琴音は興味なさそうに「へぇ」とだけ口にした。琴音の態度に沙遊の嘆息と筑士の苦笑が聞こえる。
放課後、昨日の一件があったからなのか、筑士から呼び出されて二人は幻想研究部に出向いていた。沙遊はあまり関わりたくなさそうにしていたが、琴音は昨日勝負に勝ったと思っているので別段気にした様子はなかった。
「思ってたよりすげぇことになってんだな」
「琴音、少しは新聞とかニュースとか見ようよ」
苦笑する筑士を、琴音は鼻で笑ってやる。
「朝起きたらニュースなんてみる余裕無いし、新聞も似たようなもんだ」
「自慢になってないわよ、それ」
呆れた様子で琴音をジトッと眺める沙遊を無視して、「んで?」と訊ねる。
「今日あたしらを集めたのはそれだけか?」
「いや、そういう訳じゃないよ」
言って、筑士は首を振って否定した。
彼は琴音に差し出していた新聞を手に取ると、その記事が書かれた紙面を二人に見せるように向けた。
「知っての通り、これで僕の目的は達成。……結果的には琴音に負けたようなものだけど、異世界の驚異を見せつけるくらいの効果とか、混乱くらいは招いたんじゃないかな?」
「おい、そう言われると随分と小さなことしかやってねぇな」
「僕の復讐自体、幼い頃に異世界の存在を否定された腹いせだからね。本気で誰かを殺したかったわけでもないのは、琴音が一番わかってるだろう?」
「お前は自分のことなのに自分で分かってなかったみたいだけどな」
琴音の指摘に、筑士は苦笑いで返事した。そして、すぐに説明を続ける。
「僕には、昨日の事態を起こす計画を立てるだけの情報集めが必要だった。学校で調べる場所があればやりやすかった。……オカルト研究部が潰れたから、後にこのクラブを作るのは割と簡単だったよ」
「部長がここを作ったのは、それだけの理由だったんですか?」
「うん。……まぁ、ここであれこれ雑談してるのは楽しかったけどね」
言って苦笑するが、「でも」と次に続けた。その表情はとても穏やかだった。
「でも、幻想研究部の存在意義は無くなった。そもそも、僕はこれだけのことをやっておいて、責任も取らず終わりじゃ虫が良すぎる。立つ鳥跡を濁さずって言うし」
「……この幻想研究部を潰すと?」
「正確には廃部になるかな? 僕が抜ければ、人数足りなくて潰れるから。……そもそも、僕がここに居ても恨みを買うだけだよ」
筑士は少し残念そうな表情だった。彼が設立して、ここまでなんだかんだ楽しくやっていた分、思い入れがあったのかもしれない。
悲しそうな筑士の表情を目にして、琴音は鋭く筑士を睨み付けた。
「ざけんな」
静かに呟き、彼女はその手にジャラジャラと鎖を生成する。琴音の行動にはさすがに筑士も困ったような表情を浮かべ、沙遊も仲裁に入ろうとする。
だが、琴音は止まろうとしない。
「あたしが大人しく鳥を飛び立たせると思うか? 鎖で繋ぎ止めてでも逃がさねぇよ」
「いや、だからって鎖を作り出さなくても……」
「だいたい、あたしは面白くないならすんなって、あのとき言ったよな?」
「……それはそうだけど」
煮え切らない反応しか見せない筑士に、琴音は苛立ちながら鎖を振り付け、筑士の細い腕に巻き付けた。本人は「え?」とかなり狼狽した様子だ。
「前にあの糸目に言ったんだ。あたしは富も名誉も翼も欲しいってな。手に入れて損は無いけど、失うのは楽しくねぇんだよ。つーわけで、あたしの一存でお前は逃げるな。だいたい、お前とあたしが組んで良かったって言ったのも、お前だったじゃねぇかよ」
「いや……だからって、のうのうとここで過ごす訳には……」
「知るか! そんなの踏み倒せ! そんなこと一々気にしてたら、あたしなんてとっくに自殺してらぁ!」
「……えー」
「文句あんのか? あぁ? 何なら暴力に訴えてでも繋ぎ止めるぞテメェ」
「……君、どこの不良?」
まるで野獣のように威嚇する琴音を、筑士たちはいつものように呆れた様子で見つめていた。……が。
「ふふっ」
筑士が、僅かに微笑みの声を零した。
「ん? なんかおかしかったか?」
「おかしいわよいろいろと!」
ついには沙遊につっこまれたが、彼女もどこか可笑しそうに笑っているように見えた。しかし、琴音は自分が何を間違ったのかよく分かっていなかった。
筑士は「やれやれ」と両手を横に投げ出した。
「確かに、琴音は繋ぎ止めておかないとまずいね」
「そうですね。縁代さんから鳥籠を借りてきて、閉じこめた方がいいかもしれません」
「……って、繋がれるの、あたしかよ! ふざけんなテメェら! 吊すぞ!」
という言動が危ないことをもっと認識して欲しい。もっとも、良くも悪くも彼女のせいで、ギスギスしていた二人が一つの結論を下せたのは大きな功績だろうか?
さて、そこまで話しておいて、筑士には一つの疑問が残ったようである。
「それで? 僕を繋ぎ止めようとしてまで幻想研究部を残して、どうするの? 少なくとも、異世界のことを調べる必要はもう無いでしょ?」
筑士の質問を耳にしながら鎖をこの場から消し去ると、琴音は得意げに笑ってやった。
「それはお前の目的だろ? あたしは楽しければなんでも良いんだ。異世界のことを調べて、楽しそうなことを研究する。終わらせる事なんて許さない。調べたら色々見つかるかもしれないのに、無視するなんてもったいないこと出来るかよ」
「要約すると、また異世界に関わろうって思ってるわけだね?」
「そんなとこだ。あわよくば、今度はお前の能力も武器にできるようにしようぜ? そうだな……じゃあ、次はあっちの世界に行く計画でも立ててみるか? お、自分で言っておいてこれ、面白そうだな」
短絡的な考えを頭の中で巡らせ、目を爛々と輝かせながら一人「うおぉ!」と楽しそうに騒ぎ始める。
「よし、そのためにお前の知恵を借りるぞ、筑士! 沙遊は……そうだな、あたしと同じトラウマを味わえ」
「え、私も行くの?」
「当然だろ? 小説書くための取材だと思えば楽しいぞ? こっちの世界であっちの世界をテーマにした小説、面白くねぇか?」
「……そうなるとある種の冒険譚になりそうね。ちょっと面白いかも。……あ、それでも、トラウマになるのは勘弁ね?」
沙遊との話を付けて振り向けば、筑士はポケットの中から一枚の羽を取りだして見せつけた。彼女は小さく「お!」と驚きと期待に満ちた声を上げた。
硝子のように透き通ったその綺麗な羽は、この世界と異世界を繋ぐ扉。次元の羽だった。
「実は昨日、ちょっとね。行きだけならこれでなんとかなるよ。スイッチは切ってあるから歪みも生じなくなってカラナに見つからない。なにより、僕の判断でいつでも使える」
「おい、なんでそんなの持ってるんだよお前? 反省してねぇぞ」
「琴音が欲しがってたからプレゼント。琴音に対する罪滅ぼしってことで」
微笑みながら差し出された希望の羽を目に映して、琴音は歓喜の声を放つと共に腕を高く突き上げた。
「よっしゃ! そうと決まれば幻想研究部、活動開始だ!」
感情のままに宣言する琴音は、ここに居ることさえも楽しみに変えるかのような笑顔を見せていた。
羽の奥に見える異世界は、手を伸ばせば届きそうなほど近くにあった。