私は誰かを苦しめる。私に関われば、たちまち誰かが病んでしまう。
私は空っぽにはなれないから。心そのもの、夢そのものだから。
心を蝕む悪夢、そのものだから。
空っぽな人形は何も与えないけど、私は誰にだって悪夢を与えてしまうから。
だから、誰も私に近づかないでほしい。
病んでしまった空なんて、誰も好きにはなれないでしょう?
第四話 ~氷雨~
いつからだろう、空心の中に違和感が芽生えていたのは。
元々自分のことになんて興味などなかったし、考えたこともなかった。アメフラシに呆れられ、クラスメイトから変わった目で見られる理由はわかっても、気にしたことなど一度もなかった。
もっとも、それが他人の迷惑になるというのであれば、話は別だったけれど。
でも、今は違う。何がどう違うのかはっきりとはわからないし、おそらく気づけるだけの大きさを持った違いでもないのだろう。
けれど、それは確実に、空心の中にあるのだ。
小さくて見落としてしまいそうなほどのものが、空っぽのはずの心の中に落ちている。
まるで、乾いたアスファルトの上に落ちた雨粒のようなものが、何もなかったはずの彼女の中で残っている。
「だから、空心はアメフラシくんにこれ以上会っちゃダメ」
不意に、頭に直接響くような声がした。自分よりも幼い感じの、女の子の声だった。
声は自分の中から生み出されたような感覚だったが、咄嗟に空心は周囲を見回した。
そこは、先日例の野良犬を追ってやってきた、町の中でも寂れた区画だった。雲の少ないカラッとした青空の下で、周囲には人の影さえ見当たらない。まるで、何もない砂漠に一人だけ放りこまれたような錯覚さえ抱かせた。
……そして、家に居たはずの空心が、どうしてこんなところに居るのか、疑問も抱かなければならなかった。
まるでもう一人の自分が勝手に動いたかのよう。それとも、夢遊病でも見ているかのよう。思えば、あの道化の姿をした悪夢に操られた時も、こんな感じだった気がした。
再び心の中から声が聞こえる。空心とは対照的な、感情的な声だった。
「あなたに心はいらないよ。ずっと空っぽじゃないと、生きている意味もないし罪にもならないから。だから、今のあなたは許せない」
直後。急に目の前が暗くなり、意識が自分の意志とは関係なく切り離されていく感覚に陥る。眠りに着くときのように暗い世界に沈んでいく。
――嫌だ。
最後にそんなことを願った。
何が嫌なのかもわからない。このまま何も出来ないまま、何も知らないまま、なぜこんなことになっているのかもわからないまま、終わるのが嫌なのか?
「無駄だよ」
自問自答を遮る声を、空心は淡々と聞いていた。
「空っぽになったくせに、私の悪夢が見れると思ったの? ふざけないで! あなたがそれを望むなんて、許せない! さっさと消えろ、空心!」
とても深く、押さえきれないほどの怒声だった。
けれど、声の主の言うとおり、きっと空心にはこうなった理由はわからない。
……わからないまま、なにも考えられないまま、意識は闇に溶けて消えていた。
紅い雨がざわつく。それに導かれるように、レインコートを纏った少年は悪夢を追っていた。
アメフラシの上にある雨雲。そのさらに上には青空が広がっているようだ。だが、あいにくアメフラシは行動を共にする紅い雨のおかげで、よほどのことがなければ日の光を浴びることはなくなっていた。
常に目にする夢の光景。……つまり、アメフラシにとって、悪夢の光景。
このことを意識したのは、おそらく空心と出会ってからだろう。彼女を心配するようになって、悪夢から守るようになってから。同時に、悪夢と人間の違いを痛感するようになってしまってから。
……もっとも、自分の過去を知らないアメフラシに、自身の出生を知る術などないのだけれど。
「知ったところで、たぶんやることは変わらないんだろうけど」
自嘲気味に笑って、アメフラシは歩きながら周囲を見回した。
そこは先日やってきたばかりだ。まだ一週間も経たない期間で、またこの寂れた場所に悪夢が現れたらしい。
奇妙だとは思った。悪夢が似たような場所に現れるということは少ない話ではない。だが、基本的に人間に危害を加える悪夢が、こんな人の少ない場所にわざわざ現れることは少ないのだ。
さらに……紅い雨の様子から察するに、この悪夢は、現れてからずっと、その場にとどまっているように思えた。
「誘われてる、としか思えないな」
人気の無い場所に現れ、ずっとその場に居る。それは、普通の悪夢が起こす行動とは思えなかった。
悪夢は欲の塊だ。そんな存在が、好き好んで一か所に留まっているとは考えにくかった。
手にした傘を強く握り、ひたすら雨に導かれるままに進み続ける。待ち構えているというのなら、不意打ちにも対応できるように気を引き締めた。
悪夢を追い詰めるようにじわじわ距離を詰める。その度に、紅い雨はかすかに反応を強めていった。
そして、とある曲がり角に差し掛かった時、アメフラシの勘がそれを告げた。
無言で傘を手にし、視界を遮っていた曲がり角から飛び出した。傘を突きつけるように掲げ、先端にいつでも水を蓄えられるよう意識する。
――だが。
その意識は、目の前に突如現れた二つの姿によって、あっさりと解きほぐされてしまう。
「お姉ちゃん……」
アメフラシの視界に飛び込んできたのは、塀に背を預けて項垂れている空心の姿だった。
服装が制服姿ではなく、飾り気のない私服姿だったので、おそらく家からここに来たのだろう。思えば、今日は休日だったのかもしれない。
だが、彼女はいつも以上に、生気を失っているように見えた。声をかけてもこちらへ振り向かず、瞳は完全に暗んで色を失っていた。
そして、もう一人の人影。彼女は、空心の傍にたたずんでいた。
アメフラシが空心のことを呼んだためか、こちらに振り向いてむぅと頬を膨らませながら。
「あ、やっと来た! もう、遅いよアメフラシくん!」
どこか身勝手な怒りを放ちながら、緊張感の欠片もなくこちらに歩み寄ってくる少女。
その少女に、アメフラシは思わず警戒を強めてしまう。違和感があるとか、何かが怪しいとか、そういう次元ではなかった。彼女の全てが異常だったのだ。
今までに出会ったことの無いはずの女の子だ。空心よりも幼く、小学生の低学年くらいに見えるアメフラシよりは年上といった感じ。小学生の高学年くらいの女の子だろうか。アメフラシより少し背が高いくらいの、可愛らしい容姿をした女の子だ。
近くに居る空心とどうしても比較してしまうが、彼女はどうやら感情を表に出しやすいらしい。
そんな女の子は、赤と白を基調としたどこか子供らしいオシャレな服を着込んでいた。……だが、その色は今、ほとんどが紅く染め上げられている。
おそらく流れるような長髪であっただろう髪も、先ほどから紅い色をした雫が垂れ落ちていた。まるで、血を浴びてしまったかのように。
「お前は、なんだ?」
鋭い瞳で睨むと、彼女はなぜそんな顔をされるのか分らないとばかりにきょとんとし、首を傾げてしまう。
「なんだって、何が?」
「お前は一体何者なんだ? お姉ちゃんに何かしたのか?」
「……あらら、それは心外だね」
少女はどこか不機嫌そうにプイと顔を反らし、腕を組んで反論。
「私は何もしていないよ。むしろ、空心は本来あぁなるべきなんだよ」
言って、少女は空心を指で示した。そこにある顔は、やはりいつも以上に生気を失っているように見える。それに、アメフラシがここまで声を出しても、彼女はこちらへ一切顔を向けようとしなかった。
まるで、今までなんとか動いていた機械仕掛けの人形が、ついに壊れてしまったかのよう。力を失って、何もかも放棄してしまった人形のようだ。
「死んでるわけじゃないよ。人間、心を無くしたって、夢を失ったって、ちゃんと生きてる。ただそれだけ」
「お前が何かしたからじゃないのか!」
「だから、なにもしてないって。むしろ、今までは私がなんとかしてあげてたくらい。……本当は、こんなことするくらいなら死んでほしいくらいなんだけど」
暗い表情で、再び空心の顔を睨む少女。あまりに深い憎悪のせいか、感情らしい感情が見えなくなってしまうほどだ。
だが、そのとき。アメフラシの目の前で……どういうわけか、この女の子と空心が、重なった。
怪訝に思って目をこすり、再び見比べる。するとどうだろう。この子と空心では、表情の差が大きすぎて気付けなかったが、見ればかなり顔の作りが近いことが分かる。
例えるなら、この女の子が成長すれば、空心そっくりな容姿になるくらい。
雨に全身を濡らし、前髪で目元を隠しそうになりながら、女の子はこちらを見て微笑を浮かべる。まるで、こちらの考えを汲み取ったかのように。
「そういえば自己紹介がまだだったね。私は空病。空の病気って書いて、ヒデリって読むの。……まぁ、これは自分でつけた名前なんだけどねー」
空病と名乗った少女はくすくすと笑い、「それで」と続ける。
「回りくどいことは無しにして用件だけ言うけど。アメフラシくん、あなた、もう空心に近づかないでくれる? あなたのせいで、空心は余計な夢が芽生えてちゃってる。それって私、とっっても不愉快なんだ」
最初、空病が何を言っているのかよくわからなかった。
けれど、アメフラシに疑問を出させる暇もなく、空病は続けて言う。
「ねぇ、アメフラシくん。あなた、空心が昔どうだったか知ってる? 知らないからそうやってお姉ちゃんお姉ちゃんって慕ってるんでしょ?」
「っ……そりゃ、お姉ちゃんは何も言わなかったから」
だが、思えば以前、柴倉柚季という空心のクラスメイトを助けたとき、何やら気になることを言っていたはずだ。
たしか……『昔と比べて変わっている』といったニュアンスだっただろうか。
つまり、以前は今のように夢を失って悪夢が見られるような状況ではなかったのではないだろうか。それは気付いていたことだった。
だが、それだけだ。
空病はアメフラシの反応をにやりとした笑みで見つめ。
「ふんふん、やっぱりね。なら教えてあげるよ。氷雨空心は、小学生の時、友達を自殺に追い込んだんだよ」
「え……?」
何かの間違いかと思った。あまりにもあっさりと、予想も出来ない言葉が飛び込んできてしまったためだ。
お姉ちゃんが、昔、友達を自殺に追い込んだ? 今の彼女からは想像もできない出来ごとに当惑し、首を振って否定する。
「嘘だ。なんでお姉ちゃんがそんなこと」
「なんでそんなこと? おかしなこと言うね。そんなことをしたから、空心は変わらなきゃならなかったんだよ。空っぽの、自分を持たない人形になるしか、あんなヤツ生きている価値なんてなかった。ま、もっとも、死んだらそれこそ逃げるだけだから、許しやしないけどね」
「……信じるもんか!」
言って、アメフラシは怒声とともに紅い弾を撃ちだした。
射出した弾丸は威嚇するように空病の足元を跳ね、爆竹でも爆ぜたのかと思うような音を立てて破裂した。
「お前がどんな悪夢か知らないけど、これ以上無駄な話をするつもりなら、容赦なく殺す」
「おお怖っ……っと言っても、こっちも引き下がれないの。できれば穏便に終わらせてほしいんだ。私としてはアメフラシくん、空心に余計な事さえしなければ、味方だと思ってるもん」
空病はこちらに手のひらを向けてきた。
身構え、何が起こっても対処できるように気を配る。けれど、アメフラシの対応とは打って変わって、空病はアメフラシに何もしてこなかった。
ただ、目の前にぼやけた人の姿が映し出されていくのみ。
「なんだ……?」
空病の悪夢としての能力だろうか、それがいったい何なのかはわからないが、彼女の説明もないまま映像は徐々に鮮明なものに変ってゆく。
最初に目に映ったのは、空病と同年齢くらいの子供が倒れているところだった。
だが、その頭部は酷くひしゃげており、表情をうかがうどころか性別さえもはっきりしない。服装から女の子らしくは見えるが、それ以外分らなかった。
死体の周囲はバケツをひっくり返したような血だまりが、どす黒く変色して映し出されている。辺りの塀やアメフラシの後方にまで、飛び散ったらしい黒色が見られた。
次いで、空病の背後に高い塔のような建物が現れる。その光景から想起されるのは、この子が飛び降りたという事実。
そして……最後に現れたのは、空病に酷似した少女が、呆然とその惨状を前に立ちつくしているものだった。
「これが、空心の罪。この子の気持ちも理解せず、自分勝手に遊んでいた結果」
どこか恨めしい声で、空病は言う。
空病の言葉が正しいのであれば、立ち尽くしているのは数年前の空心なのだろう。空心の頭の上には、次々と断片的なイメージが浮かんでいく。
背丈の似通った二人の少女が浮かぶ。一人は空心、もう一人は分らないが……なんとなく、目の前に転がっている死体となった少女のように思えた。
名前も知らない女の子は、空心に指輪を渡して笑っていて、空心も女の子らしく笑っていた。察するに、この子の宝物を空心に見せたのだろう。
場面が切り替わり、空心はまた指輪を持っていた。……いや、正確には、隠していた。
なぜそう思うのかはわからないが、なぜかアメフラシにはそう感じた。まるで、空心の気持ちがアメフラシとリンクしているような感覚に陥っている。
だからわかった。
空心が指輪を持っているのは……借りた物を「無くしてしまった」と嘘をついて隠しているのは、ちょっとした独占欲と悪戯心なのだろうと。
だが、それを聞かされた少女は酷く泣いていた。その場で嘘だと言ってしまえばいいのに、気まずくて空心には出来なかった。
それが、この子との最後の会話となってしまった。
数日後、空心は友人の自殺した現場を目撃することとなる。どんな気持ちで死に至ったのか、表情から全く伺うことはできなくなった。謝ることも、助けることも出来なくなった。
……その指輪が、その子の母にとって大切なもので、空心の知らないところで酷い仕打ちを受けていたことを、記憶の断片のどこかで感じ取った。
「許せないでしょ? 空心はこんなことをしていたの。だから、罰は受けないといけない。自分勝手に生きてきたこいつは、自分なんてあっちゃいけないの」
困惑したままのアメフラシを正気付かせる声が聞こえ、アメフラシは夢から覚めたようにはっと目を開いて空病を見た。
空病は手のひらを握ると、彼女が作り出した景色はあっさりと消え去る。そこに残った表情は、辛く苦しんでいるようにも見えた。
「だけど、死ぬなんてもってのほか。あの子と同じことで逃れるなんて、虫が良いにもほどがあるよ。……だから、一生あぁしていればいいの。空っぽになって、二度と誰も苦しめない人形になっちゃえ。あんなヤツに、夢なんて持たせるなんてバカバカしいよ」
言い捨てて、空病は小さく溜息をついた後、こちらに進んできた。
「だから、アメフラシくんは近づかないでほしいの。私たち悪夢が他人の夢になり変われるように、あなたの存在は空心に夢を与えている。このままだと、またあんなやつがこの世に出てきちゃうよ」
「……なら、僕を殺そうと思ったりしないのか?」
「だから言ったでしょ? 私はアメフラシくんを味方だと思ってる。私も、悪夢は嫌いだから。あなたみたいな悪夢が居ると、私としても嬉しいの」
歩みを止め、同意を求めるように手を差し伸べてくる空病。対してアメフラシは俯いたまま、詰まった言葉をどうにか吐き出そうとしていた。
空病は紅い雨に打たれながら、にこにこと交友的な笑顔でこちらの対応を待っている。
……雨音しか聞こえない世界に、ようやく、雨の主の声が混じった。
「僕も、悪夢は大嫌いだよ」
――瞬間。
アメフラシの周囲を旋回するように、足元を流れる紅い水の群れが一斉に渦を巻き、空病を拒絶するように壁を作り上げた。
その壁が、突如として弾け、周囲の何もかもを飲み込むように襲いかかる。
「きゃっ!」
可愛らしい悲鳴は水の向こうに一瞬だけ消え、再び現れた姿には不愉快そうな瞳が宿っていた。
「……どーいうことかな、アメフラシくん?」
「見ての通りだよ」
傘を突きつけ、抱いている敵意を露わにしながらアメフラシは空病と向かい合う。
「確かにこれが本当なのかもしれないし、お姉ちゃんが昔酷いことをしたと思うとどういえばいいのかわからないけど……でも、お前の見せたお姉ちゃんは、すごく辛そうな顔をしてたじゃないか!」
迷っていないといえば嘘になる。本当に空心が当時そんなことをしていたとしたら、悪夢でなくても他人を苦しめたのだとしたら、見る目が変わってしまうかもしれない。
だけど、その情報をよこした悪夢――空病の語ることを全て受け入れることはできない。たったそれだけの情報で、空心のことを嫌いになりたくない。
何より、今まで空心と何度か一緒に居て……仮に心らしいものがなかったとしても、彼女はアメフラシという悪夢に近づいてくれたのだ。こんな悪夢のことを、守ろうとしてくれたのだ。
空心を守りたい。揺れる心の中で見出した気持ちは、欲望としての衝動は、それだった。
「本当にお前が僕のことを敵と見ていないなら、僕の主張も聞いてほしいね。……お姉ちゃんがもしお前の言うとおり心を空っぽにされたなら、元に戻す方法を教えろ」
「……あーあ、やっぱそうなるか。それで、答えない、とかいったら?」
呆れて息を吐き出して、次には挑発的な笑みを浮かべる。ころころと表情を変える空病には、余裕さえ見て取れた。
アメフラシは鋭く睨みつけ、背後から水柱を作り上げながら。
「だったらお前は、僕にとってただの悪夢だ。お姉ちゃんに危害を加える悪夢は、殺す」
アメフラシの意志を受け、空病は数歩後ずさりながら、けれどにやにやと悪戯心を潜ませた笑みで受け答えてくる。
「じゃ、やっぱり交渉決裂ってことで。……でもさ、もしも空心のために動こうとしてるなら、今のアメフラシくんじゃ力不足なんじゃないかな?」
脳裏に一瞬浮かんだのは、以前自分が倒した石造の悪夢のこと。
たしかに、悪夢としての本質が揺らいでしまうと、原動力はかなり弱ってしまう。そんなこと、アメフラシだって知っていた。
だが、アメフラシには『悪夢を殺す』という欲もある。今までと同じように、そのために欲を働かせるだけだ。
「そんなこと……やってみればわかるだろ!」
アメフラシが傘を降りおろす。
彼の背にあった水の柱は、容赦なく空病に襲いかかった。