僕は、お姉ちゃんを守りたかった。
ただ、それだけなんだ。
第六話 ~天気雨~
ざぁざぁと降り続ける雨が手元に集まり、弾け飛ぶ。
透明な水のつぶてはでたらめに空病へと向かって飛ぶ。大雑把な攻撃であったためか、空病は大きく動いた様子もなくそれをかわした。
けれど、彼女の表情には先ほどにはなかった、かすかな苛立ちが見て取れる。
空病が手を水平に薙ぐ。けれど、か細い腕が空を切るだけで、何の変化も起こらなかった。
「無駄だよ」
傘を杖代わりに一歩歩み出す。まだ油断できない状況であるが、それでも精いっぱいの強がりを顔に張り付けた。
「この雨は僕の力だ。僕が支配する武器だ」
それはアメフラシがまだ生きていた頃。自分たちを殺した車を撃退するように、大嫌いな雨で悪夢を懲らしめた記憶。それが起因したものが『雨の支配』という力を生んだのだとしたら、もう空病に雨を奪われることなどありはしない。
「雨は嫌いだけど……でも、僕はこいつを使って悪夢を倒せるんだ。もう、雨に屈した昔の、弱い悪夢なんて、僕は持っていない。克服した恐怖なんて、もう悪夢とは思えないよ」
空病の力は悪夢を操る力。逆を言えば、既に悪夢と思えないようなものは、彼女では操ることができない。
雨を支配するのは『強くなりたい』という願望の現れだ。雨を操って悪夢を殺すという決意の塊だ。そこには、過去、雨のせいで苦しんだという絶望感など残っていない。
こうなってくると、アメフラシに残る悪夢は二つ。
空病もそれを理解しているようで、苦虫を噛んだような顔をすると、すぐさま次の悪夢を顕現させる。
激しくタイヤが摩耗する音がする。ブレーキが軋んでも、狂ったように迫りくる悪意の音がこだまする。
そして、視界にそれが飛び込んできたとき。その変化をアメフラシは目の当たりにした。
それはもう、軽自動車の形をしていなかった。ガラスには狂った笑みが一面に張り付き、車体は絶望と苦痛に呻いているようにぼこぼこと蠢く。ドアがこちらに掴みかかろうと開閉を繰り返し、開かれるたびに叫び声が聞こえてくる。
おそらくこれは、アメフラシが最も恨む悪夢を再現した結果なのだろう。無意識的に嫌っていた悪夢が、思い出したことでより凶悪な造形に変貌を遂げた結果だったのだろうか。
そんな悪夢の塊を、アメフラシは……睨みつけ、そして、不気味にほほ笑んだ。
彼の笑みを恐怖したのか、空病は手を振り上げて命令を下す。アメフラシにとって最悪の思い出はさらに加速しながら突っ込んでくる。
「……今度こそ、僕はこいつを殺すんだ」
片手を地面に向ける。
「こいつが僕の、ホントに殺したかった悪夢なら、好都合だ!」
向かい来る悪夢の足元が、湧きあがる水たまりによって隆起する。それは間欠泉のように噴き上がり、自動車を押し上げる。
バランスを失い、自動車は横転。金属を削る激しい音を鳴らしながら、アメフラシの横を通り過ぎていく。
けれど金属の破れる音が止まると同時に、重たい何かが地面を揺らした。見れば、悪夢は傷をものともせずに起き上がり、再びエンジンを鳴らしていた。
再び加速して迫りくる悪意。アメフラシは膝を折り、地面を片手で突いた。
直後、道を埋め尽くすように水の針が突きだす。現れた無数の針の山は自動車の勢いを殺し、タイヤを射抜いて動きを止めた。
けれど、生前のアメフラシの経験を再現した悪夢のためか。雨で作った針では目立った外傷を与えた様子はない。
苛立ったエンジン音がうるさく響く。動きを抑える針たちはびりびりと震えながら耐えるが、抜け出すのは時間の問題のように思えた。
その悪夢に向けて、アメフラシは静かに手を掲げる。
「させない」
アメフラシの背後から、呟かれる声が聞こえた。
その後訪れるのは、眼前の暴走車とは比べ物にならないほど静かな、雨音にさえ紛れてしまう小さな一歩。
視線だけ動かして後方を見やると、そこにはもう一人の少女が立っていた。アメフラシとどことなく似た容姿で、アメフラシよりも年上の女の子だった。
「……お姉ちゃん」
もう間違えることはない。彼女は、今のアメフラシになる前の人間だった頃、守ることのできなかった彼の姉だ。アメフラシの中にある、もう一つの悪夢だった。
彼女が近づく。アメフラシの視線は姉の幻影に捕らわれ、目を離すことができなくなっていた。
そして、彼女はアメフラシの背から華奢な腕を伸ばして、抱きしめるように彼を拘束する。彼女の力はか弱い少女そのもので、アメフラシなら容易く弾くことができそうだ。
だが、それはできない。雨に打たれ、泣きつくように現れた姉に対して、たとえそれが空病の作りだした悪夢だとしても、手が出せなかった。
そのとき、パキッという氷の割れたような音がして、針の山を成している針が一本崩れた。それを皮きりに、次々と割れ、砕け、壊れていく音が響く。まるで一方的な暴力に対する悲鳴のように思えた。
アメフラシはそれを見据えながら、軽く俯き加減になって呟く。
「ごめん」
言葉は、自分を抱きしめる姉に向けたものだった。この幻影はただアメフラシの動きを制限しているだけなのだろうが、どこか心苦しいものは感じていた。
「僕がこうしてお姉ちゃんの前に立ちたかったのに……何もできなくて、ごめん」
謝罪の言葉を口にしながら、けれどまともに動かない両腕を僅かに動かし、手にした傘を地面に落とすと、両手を開き手のひらを前方に向ける。
手のうちには雨が集い、渦を巻いて形を押しとどめてゆく。
一方で、針の山でもがく自動車はついに動きを制限していた針たちを完全に砕いてしまう。その衝撃からか、道路に敷き詰めた針は全て元の雨水に戻り、アスファルトに落ちた。
再び轟くエンジンの音に、けれどアメフラシは臆することなく目を開いて向き合った。
「でも、今度こそは守ってみせるから……だから」
対峙する悪夢は急発進し、暴走しながら二人を轢き殺そうと向かってくる。
開けた距離が僅かであったように思えるほど凄まじい速度でやってきたそれに、アメフラシは大きく目を開き、姉の腕を強引に振りほどくと、両手を前に掲げて叫んだ。
「僕がお姉ちゃんを守るためには、僕がこいつに勝たなきゃダメなんだ!」
両手に保った水の渦は一つの巨大な円を描き、前方に展開される。
アメフラシが作り出したそれは、透明なビニールを張ったような形――傘を目の前に広げたような形を作り上げた。
急速に迫る悪夢と、アメフラシが全力で作り上げた水の傘が衝突。水の壁が歪めば、タイヤは空回りを繰り返す。
意地でもアメフラシを殺そうとするために踏み込まれるアクセル。焦げ付くタイヤの臭いが鼻につく。
歯を食いしばり、両手を震わせながらただ一点を注視するアメフラシ。一度はこの悪夢の前に倒れてしまったせいか、膝も笑い始めている。
この拮抗状態で、どちらが先に音を上げてもおかしくはなかった。
――冗談じゃない!
心の中で強く念じる。ただただ、アメフラシに根付く悪夢を倒すという思念だけを練り上げる。
――僕はもう、負けられないんだ!
アメフラシを構成する、悪夢に対する憎悪が燃え上がる。悪夢を殺すという欲を高ぶらせ、悪夢としての自分を高めていく。
――もう二度と、守れないなんて嫌なんだ!
悪夢としての力を、感情を、欲望を、全てその想いに乗せて力を放つ。悪夢にまでなって満たしたかった想いのために、アメフラシという夢全てを力に変える。
そして、それは自分でも抑えきれないほど、膨れ上がる。
「うあああああああああああああっ!」
まるで悪夢にうなされているかのようだった。自分でも理解出来ないうちに気持ちが爆発し、いつしかそれは声になって現れていた。
震える両腕を、気持ちだけで押し込む。崩れそうな両足を、無意識の力だけで前進させる。雨の盾は拮抗を許すことなく、鋼のように硬度を高めた。
それが、こう着状態を切り崩すきっかけとなる。
まるで雨が傘を通り抜けるように、力で負けた自動車の悪夢はぐらりと揺れると、水の傘を滑るように進路を外し、アメフラシの横を通り抜けてしまった。
勢い余って塀にぶつかり動きを止めた悪夢。アメフラシは傘をたたむように水を巻きつけ、槍とも閉まった傘ともつかない形に変貌させた。
「僕の前から消えろ、僕の悪夢!」
叫び、水の傘を力の限りに投げつける。
傘は自動車を横から貫く形で貫通すると、強烈な破砕音と共に吹き飛ばされた。自動車の外見とは裏腹に、悪夢は紙が風に飛ばされるように転がっていき、目を丸くして状況を見ていた空病の近くでようやく止まった。
直後、それは夢の出来事であったかのように、禍々しい造形の自動車はフッと姿を消してしまう。同時に水の傘を元の雨水に戻し、地面に流した。
荒い息のまま足元に置いていた傘を手に取ると、アメフラシは空病に向けて歩きだした。
と、彼の進路を遮るように、幼い女の子が両手を開いて道を塞ぐ。
これではアメフラシがあのとき彼女を殺した犯人のようだ。空病を守ろうとしているように見えて、アメフラシは苦笑する。
「もういいでしょ? いくら悪夢を操れるって言ったって、これじゃ足止めにもならないよ……って、聞く気はないか」
空病を見ればそれがよくわかる。彼女は強がっているような怯えているような、何とも言えない表情をしているが、決して諦めている様子はなかった。
やれやれ……やっぱりか。アメフラシは小さく息を吐き出すと、手をかざして雨を操る。
すると、少女を取り囲むように水の膜が現れ、ドーム状のその中に閉じ込めてしまった。
「どう? 他にまだ打つ手はある?」
水の牢を通り抜け、今度こそ空病の前までやってきた。さすがに身体はボロボロな上に先ほど無理をしたせいか、今度こそ傘を手にしていないとまともに立つことも怪しかった。
それでも、アメフラシは空病の前までやってきた。
彼女は悔しそうに肩を震わせ、俯いて問いかけてくる。
「……私を殺すの? 私はアメフラシくんの嫌いな悪夢だし、殺したい?」
尋ねられ、アメフラシは静かに首を横に振った。
「何も知らなかったらそうしてたけど、空病はお姉ちゃんなんでしょ? 殺せるわけないじゃん」
言うと、空病は鋭い瞳でこちらを睨みつける。雨に濡れているせいか、一瞬瞳から雫が零れたように見えた。
「なんで空心のことを助けようとするの? さっきも見たでしょ? 空心は最低なことをした最低な奴! そんなヤツのために何かしようなんておかしいよ!」
「そうは言われても、僕がしってるお姉ちゃんは、放っておいたら何をするかわからないような、出来るなら手を貸してあげたくなる、そういうお姉ちゃんなんだもん。だから、僕はお姉ちゃんを守りたかったんだよ」
「……だったら、やっぱり私は、アメフラシくんを倒すよ」
空病が睨みつけてくる。アメフラシは小さく嘆息を漏らすと、さらに彼女の傍まで近づく。
空病にとっては予想外の行動だったのか、「なに?」と険悪な様子で問いかけてくる。
すぐには答えず、アメフラシは空病との距離をかなり縮めて止まる。手を伸ばせば届くような距離だ。
そこで。
アメフラシは杖代わりにしていた傘を両手で持って。
怪訝そうに様子を見守っている空病の目の前で、傘を開いた。
自分の背丈には少々不釣り合いな、ちょっとだけ大きな傘だった。そういえば、こうして傘を開いたのは初めてだったかもしれない。普段からレインコートに身を包んでいるためか、傘を使うのは武器としてのみだ。
けれど、今は違う。
アメフラシは開いた傘を、空病に差し向けた。
「……え?」
きょとんとした声が返ってくる。それも当然か。ふらふらの身体で傘を差し、あろうことか空病を雨から守るために使っているのだから。
呆気にとられている空病に、アメフラシは呆れた声で。
「早く取ってよ。僕、割と疲れてるからこうしてるの辛いんだよ」
傘が彼女に当たらないようにつま先立ちして、傘を支える指はぷるぷる震える。それは、年相応の少年が見せる、精いっぱいの行動に見えた。
それがあまりに予想外だったためか、空病は言われるがままにアメフラシから傘を受け取り、素直にそれを差した。いままで雨に濡れ続けていた彼女が、ようやく解放される。
アメフラシは疲れ切ったように息を吐くと。
「僕はもう戦わないよ……空病お姉ちゃん」
「…………。……は? お、おねーちゃん?」
急に呼び方が変わったためか、空病は全くついていけないといった風だった。対して、アメフラシは当然とばかりに。
「いや、だって、どう見ても僕より年上じゃん。呼び捨ても悪いし。けど、お姉ちゃんだと空心お姉ちゃんと被るし」
「……うん、まぁ、この際呼び方はどうでもいいけど……でも、どういう風の吹きまわしなの?」
空病としては、それが一番気になるらしい。
それもそうだろう。先ほどまで敵対していた相手であるし、アメフラシ自身も空心のために空病は殺さないと言った。空病としては、こうされる筋合いなどなかったのだろう。
けれど、アメフラシの考えは違う。
「僕は悪夢が嫌いだよ。でも、それ以上に、大好きだった人を守りたかったんだ。……そう思えるお姉ちゃんが雨に濡れないように、傘を渡したかったんだ。雨にぬれて寒くならないように、こうしてあげたかったんだ」
「……なら、空心に渡せばいいのに」
「僕は悪夢だよ? お姉ちゃんに傘を渡すことはできないんだよ。だから……その傘を、空病お姉ちゃんにあげるよ。なんていうか、やっぱり放っておけないんだもん、空心お姉ちゃんも空病おねえちゃんも」
言って、アメフラシは微笑んだ。
なぜか、空病は傘を手にしたまま、急におとなしくなっている気がする。その理由をなんとなく察して、アメフラシは話を続けた。
「空病お姉ちゃんは、ホントは空心お姉ちゃんが嫌いなんじゃないんでしょ?」
「――っ!」
図星だったらしく、空病は酷く慌てた様子で目を開き、「な、なんでそうなるの!」とこちらを批難してくる。
アメフラシは臆せずに反論する。
「おかしいと思ったんだよ。それだけ昔のことを後悔してるのに、空っぽになっちゃった空心お姉ちゃんを恨んでるなんて」
おそらく、『空心』の全てが許せないというのはあるのだろう。
だが、あくまで今の空心は空っぽの人形だ。そんな彼女に空病がやらせたことは、他人の迷惑にならないよう自分を殺し、他人のために動くと言う自己犠牲の行動だけだった。
そこに過去の贖罪は含まれているはずだ。……でも、それだけなのだ。
肝心の『大嫌いな空心』への恨みというわけでは、ないのだ。
だから、こう思う。
「たぶん、空病お姉ちゃんが一番嫌いなのは……空病お姉ちゃん自身なんじゃないかな?」
返事は、無かった。けれど、それが何よりの肯定の意味を含んでいた。
「空病お姉ちゃんは自分が嫌いだけど、けど、何をすればいいかわからなかったんじゃないの? 死ぬことはただの逃げになっちゃうのに、お姉ちゃんのやったことは取り返しがつかないから。だから、空心お姉ちゃんを使って、誰にも迷惑がかからないようにしてたんじゃない? どうすればいいかわからなくて、悪夢だから、誰にも相談できず……」
「――うるさい!」
空病の怒声が響く。彼女の瞳はほんのり赤みを帯び、可愛らしい顔立ちには明確な怒りが浮き出ているようだった。
「アメフラシくんに何がわかるの? 取り返しのつかないことをした私のことなんて、あなたじゃわからない! 私はアメフラシくんみたいに強くない! 誰かを傷つけて、悪夢を見せることしか出来ないんだよ? アメフラシくんじゃ、私のことなんて……」
「……そうでもないよ。僕だって、僕が嫌いだったもん。むしろ、もっと最低なくらい」
アメフラシの言葉に、空病は押し黙った。
少しの間をおいて、アメフラシは続ける。伏し目がちに、自分を戒めるように、
「弱かったころの僕が大嫌いで、昔のことを置き去りにしてここまで来たんだもん。空病お姉ちゃんに見せてもらわなかったら、僕は何も知らないままだったよ。……弱かったままの僕を見捨てて、雨を従えて悪夢だけ恨んで、本当に守らなきゃいけなかったお姉ちゃんのことまで忘れて……今にして思うと、本当に僕は弱くて最低だった」
だからこそ、とアメフラシは顔を上げた。
「でも、空病お姉ちゃんは違う。確かにお姉ちゃんは自分が嫌いなのかもしれないけど、ちゃんと昔のことを覚えてる。全部自分の中にしまいこんで、今だってそれで苦しんでる。……そんなの、僕には出来なかったことなんだ」
正直なところ、それはアメフラシにとって、とても羨ましいことだった。復讐心に駆られ、本当の目的を失ってまで悪夢を殺し続けた自分には、どこかで虚無感があったのかもしれない。
「だから、僕はお姉ちゃんを助けたいんだ。昔のことが辛くて仕方ないなら、少しでも手を貸してあげたいんだ。……だって、空病お姉ちゃんは、今までずっと一人で悩んで苦しんできたんでしょ? 僕みたいに逃げずに立ち向かって、けどやり方がわからなくて……そんなの、辛すぎるよ」
アメフラシは、どこか悲しい眼をしていた。それは、今まで守りたいと思った人が『放っておけない』『目を離すと何をするかわからない』といった印象だったのに対し、空病は心の底で自分を恨み、苦しんでいたから。
危なっかしいから守らなきゃいけないのではなく、本当に辛い目に遭っているから、守りたいと思えたから。
おそらくアメフラシの気持ちは察しているのだろうけれど、空病はぎこちない笑みで。
「それはただの同情だよ。だいたい、それで何か解決するわけじゃない」
突き放すような一言は、表情を隠すようにして放たれる。言葉を向けたのは、きっとアメフラシではなく、空病自身に向けてだった。
「そうだね。そんなことで解決するなら、誰だってそうしてる」
だけど……アメフラシは肩をすくめて、ちょっとだけ皮肉交じりに言ってやる。
「僕が悪夢と向き合えたのは、どっかの誰かが僕のトラウマを呼び起こしてくれたからだった。正直、めちゃくちゃに辛かったけど、こうして手を出してくれないと、僕は乗り越えることなんてできなかった」
「悪かったね、余計なことして」
案の定きつく睨まれ、アメフラシは苦笑する。
「でも、そういうことなんだよ。一人で悩んだって分らないものは分らない。僕だって、空心お姉ちゃんに出会わないで悪夢を思い出したら、きっと昔の自分に負けていたから。一人だと自責の念に駆られて、立ち直れなかったと思うから。だからさ、僕は手を出せるなら出したいし、怖いことがあるなら守ってあげたいんだ」
そう言って、アメフラシは手を差し出す。
「ねぇ、空病お姉ちゃん」
小さな手を見つめる空病に、アメフラシは優しく微笑みながら問いかけた。
「辛いことから逃げるために、どうして辛いことを選ぶの?」
それは以前、空心が柚季を説得するときに用いた言葉だった。
辛いこと、それは空病が抱える過去。その苦しさを晴らすために、空病はずっと辛い目に遭うことを選んできた。
きっと、彼女にとって逃げ道は他に存在しなかったのだろう。
「逃げるなとは言わないけど、空心お姉ちゃんをこうしたって何も報われないのはわかってるでしょ? 逃げることと、意味の無いことを繰り返すのは、違うよ」
もう一度、アメフラシは手を伸ばす。空病の答えが出るまで、何度でも。
……けれど、アメフラシの予想よりも早く、空病が困ったような笑みを零した。
「イジワル」
彼女は今にも泣き出しそうな顔で、それだけの言葉を押しだした。
「それじゃ、私が今までやってきたこと、全部無駄になっちゃうよ」
「だったら、その苦労をどうにかして生かせばいいよ」
「……ひっどいこと言うなぁ、もぉ」
文句は言いつつも、空病の表情から今まであった狂気染みた何かが、急に抜け落ちているように見えた。吹っ切れて、気持ちが落ち着いた。そんな様子だった。
そのせいか、空病は次々に文句を言ってくる。
「だいたい、この傘どうすればいいの?」
「さぁ? 雨降ってるから渡しただけだよ? 僕はもう必要ないしね」
「君が雨を降らせてるからだよ。……それに、ヒデリって名前の私に相手に傘を渡すなんて、どんな皮肉なの。雨傘と日傘は違うって」
空病の言葉に、アメフラシはくすりと小さく笑って、「そうでもないよ」と首を振る。
彼は空を見上げて、彼女に視線を向けるよう促す。
つられて空病は空を見上げ……「あ」と、小さな感嘆符を零した。
二人の頭上にあるのは、透き通るような青空と光を放つ太陽。なのに、空からは雨が降り続き、止むことを知らなかった。
――天気雨。
晴れているのに雨が降るという現象が、晴れている現実と雨が降る夢が交わることで、そこに描かれていた。
照りつける太陽に雨がきらきらと輝き、ただそこにあるだけの街並みを彩る。
「こうしてると綺麗に見えるし、日差しとか温かそうだけど、やっぱり傘は必要でしょ」
「……そうかもね」
ちょっと悔しそうに言いながら、拗ねた声音で空病は言う。
でも、次に見たときには諦めたように肩を落とし、顔を上げれば眩しいほどの笑みがそこにある。相変わらずころころと変わる表情に、アメフラシはなぜか見とれていた。
そして、彼女は笑顔のまま、アメフラシの手を取った。
雨に濡れた手に、少女の手が重なる。
それがそのまま、空病の出した答えのように思えた。
病んでしまった空なんて、誰も好きにはなれない。
日照り続きの天気に、誰も近寄っては来れなかった。
だけど今、空から初めて雨が降る。
その時、彼女はようやく誰かのために動けるのだろう。
雨に打たれる誰かに、傘を差してあげるように。