クウロは放課後になると、いつも同じ場所にいる。寮の裏側の、空き地と化した場所だ。
最初の頃は校庭の隅でひっそりとやっていたらしいのだが、大規模なサイを使ったために周囲から異様な目で見られ、場所を追われて寮の裏にやってきたのだという。
「……まぁ、校庭に林なんて作ったら、嫌でも目に付くよね……」
クウロも学校に入るのはここが初めてだと聞くし、自分と同じように勝手がわからなかったのだろう。……それにしたって、常識的に考えれば騒ぎになることくらいわかると思うのだが。
「クウロって鋭いし変に気が利く割に、常識が無いよね」
もっとも、そんな彼が常識外れな行動に出てくれたから、自分はここにいることができる。普通ではない彼と出会わなければ、ルメリアにやってくることは無かっただろう。
――私がいる理由って、それだけなんだろうね。
ふと、彼女の脳裏にそんな言葉が過ぎった。先生に言われたように、キョウやシャリスにはこの学校を選んだ理由があった。
……それなのに、シラーには、みんなが持っている理由がなかった。
思えば今日はこんなことばっかりな気がする。サイの性質が見つけられず、この学校を選んだ理由を持ち合わせていない。
「なんだか空っぽだなぁ、私」
家出同然で外に出ただけに、それも仕方がないのかもしれない。だけど、心を抓まれるように、小さな痛みが走った気がした。
そんなことを考えながら寮の裏までやってくる。クウロはすんなり見つかった。普段なら一面を森のように塗り替えて、どこかの樹に紛れているはずなのに、今日は何も描いた様子もなく突っ立っていた。
……正確には、ポケットに両手を突っ込んだまま、じっと地面を睨んでいた。
何をやっているんだろう? 怪訝に思って近寄ろうとしたとき、異変は起こった。
彼が見据えていた地面から、突然根が盛り上がり、地面を突き破るようにしてクウロの倍ほどの樹高をもつ樹が生えたのだ。
クウロの手はポケットに収まったままで、手を使って描いた様子はなかった。
彼はそれだけでは飽き足らないように、再び何かを描こうとする。それは、地面に突き刺さった白銀色の何かを構築しようとして――
「シラー?」
彼がこちらに気がついて、描きかけたものも、描き終えた樹も消し去ってこちらに歩み寄ってくる。
「あ、ごめんね。邪魔しちゃった?」
「いや、大したことじゃないから。念描って、あんまり得意じゃないんだよね」
「……念描……って、本当に? いや、でも、そっか……」
シラーはもう、疑うことも驚くこともなかった。その代わり、こんな生徒の担任になってしまったナリア先生に、改めて同情してしまう。
念描は、直描や手描のような描写方法の一つで、彩景魔術の行き着くところと言われている、最も難しく最も使いにくい描写方法である。
手も足も使うことなく、景色に色をつけるイメージだけでサイを発動させる、描写の完成形とされている。サイを使える人間のうち、一握りも使えないとさえ言われるものだ。
しかし実際は、手を使った描写よりも描く速度は遅くなり、意識を集中する割に大きなサイを使うことはできない。習得したところで、珍しいというだけのものだ。
……むしろ、これと同じように描写を行わないまま、無意識のうちにサイを暴発させてしまうことの方が有名だ。自分の意思に反して、自分で描いたはずもないのに、まるで心の内から色が世界に溶け出してしまったかのような現象を起こすことがある。そのため、サイの暴走のことを念描と呼ばれてしまうこともあるらしい。
「でもこれ、やってみればわかるけどすごく使いにくいよ。手を動かさなくたって、シャリスみたいに指の動きで描けばいいわけだし。修行用って割り切った方がいいと思う」
「……やってみればわかるなんて言われたって、できる人はそうそういないんだよ?」
「そうでもないと思うんだけどなぁ……僕も二年くらいこの方法でサイの訓練し続けたらできるようになったし」
「誰も真似できないから、誰も念描なんてできないんだよ」
あまりの常識の無さに頭が痛くなってくる。……とはいっても、クウロはいつもこの調子なので、気にする方が間違っている。
やるせなさを嘆息に変えて吐き出し、無理矢理この話題を自己完結させる。
そして、ここに来た本来の疑問を晴らすために、「ところで」と切り出して。
「さっきナリア先生と話してて、みんながこの学校を選んだ理由って話をしたんだけど、クウロがルメリアを選んだ理由ってなんだったの? ちょっと気になったから、よければ訊かせてもらってもいい?」
シラーの質問に、クウロは「うーん」と、珍しく何かを考え込む素振りを見せて。
「……家が近かったから? 家からここまで、ラタに乗せてもらえば四時間くらいで着いちゃう場所だったし」
「……え? そんな理由?」
「あと、ここの校長が母さんの知り合いで、ちょっとした関わりがあったから?」
「…………ルメリアが気に入った、とかは無いの?」
「そもそも僕、家ではずっとサイに没頭してたから、他の学校がどこにあるか知らないんだよね。だから、ここを選んだというより、他に行く当てがなかったんだ」
「……なんだ」
自然と零れた言葉には、ほんの少しの落胆と、自分でも意外なくらい安堵の気持ちが混ざり合っていた。
クウロには悪いが、なんだかほっとしてしまったのだ。
「どうかした?」
「うぅん。ただ、私が思っていた以上にクウロがここを選んだ理由を持って無くて、安心しちゃったんだ。私も学校に通いたかっただけで、ここに通いたいって理由があったわけじゃないから、なんだか妙に虚しい気分だったの」
「あはは。だったら僕ら、似たもの同士なのかもね」
「意外な部分で、ね」
こう言っては失礼だが、自分がクウロと似ているとは思いたくない。
シラーは、クウロほど変わり者ではないと思う。むしろこの学校では、多少世間知らずであっても常識人であると思いたい。
それに……クウロのように、昔の友達のために並ならぬ努力をして、自分の苦労を顧みないような強い人間ではない。きっと、彼のように一途にはなれない。だから、似ている部分は一部で良いと思う。
「だけどさ」
と、クウロが柔らかな笑みを残したまま、どこか誇らしげな口調で。
「僕はこの学校にくる理由を持ってなかったけど、ここに居る理由なら言えるよ」
「学校に居る理由? 前に、サイに行き詰まったからって……」
言いかけて、それこそどの学校へ行ってもできることだと気がついた。ルメリアに居る理由とは言えない。
言葉に詰まったシラーに、クウロは屈託の無い笑みを浮かべて。
「僕、この学校が好きなんだ。キョウやシャリス、それにシラーたちと笑いながら過ごせる今が好きなんだ。だから僕は、ルメリアに居る。他の学校に、みんなはいないから」
まるで子供のように純粋で、裏表の無い答えだった。
なぜだろう。シラーは彼の気持ちに、心が小さく締め付けられるような痛みを感じた。まるで、触れてはならないものに触れてしまったような、そんな気持ちだ。
何も持っていない自分が、真っ直ぐな意思に触れてしまった代償のようにも思えた。
思い返しても、自分は暖かい思い出を一つも持っていない。そんなシラーとクウロを比較すること自体が罪であるとさえ思えてしまった。
視界が一瞬だけ暗転する。まるで、地面が大きく揺らいでいるような感覚に襲われた。
「シラー? どうかした? ちょっとふらついてたけど」
「…………え?」
言われて、シラーは足に力が入っていなかったことに気がついた。
意識したときには膝は折れ、自分でも不思議なくらい身体が動かなかった。ぺたんと地面に座り込んで、糸の切れた操り人形のように呆然としている。
「ちょ、ちょっとシラー? 冗談じゃないよね?」
「う、うん……なんでかな?」
首を振って意識を正すと、それはすぐに収まった。立ち上がり、スカートに付いた汚れをはたき落とす。
「もう大丈夫、と思うよ。……たぶん、ちょっとした目眩だと思う。私ってあんまり運動とかしなかったから、体力無いんだろうね」
「あれ? そんなに疲れるようなことってあったっけ?」
「……私、先生ほどでもないけど、君たちの大暴れで心労が絶えないんだからね? 二ヶ月遅れで入ってきたおかげで、うちのクラスの常識が、私一人飲み込めてないからね?」
原因はそれか。口に出しておいて、この疲労感がクウロとシャリスの二人にもたらされたものな気がしてきた。そうでもしないと、自分でもこの不調の原因に思い当たる節が無かった。
「あ、でも」
ふと、シラーはあることに気がつく。
気がついたら、ついつい笑みが零れてしまう。つられて、クウロが「なに?」と問いかけてくるので、シラーはクウロに負けないように笑顔で答える。
……なんだ。ここでもクウロと似たもの同士なのか。
「私も、この学校に居る理由があるなら、きっと楽しんでるからだと思うよ。すっごく疲れて、いろいろとついて行けないけど……不思議だけど、面白いなって思うの」
本当に不思議だった。強制的に連れてこられた学校で、意味もわからないまま入学して、桁違いのクラスメイトたちに翻弄されている学校生活だというのに。
この学校に来てから、笑っていない日がなかったなんて。
「そういえば私、学校に通いたかった理由が、楽しそうだったからなんだ。いつからそう思ってたのか思い出せないけど……ひょっとして本で読んで気になってたのかな?」
「今が気に入ってるならそれでいいんじゃないの?」
「……まぁ、それもそっか」
クウロの言葉に納得して、シラーは疑問を掘り起こすことを止めた。それに、これ以上必要の無いことを思い出そうとすると、頭が痛くなってきそうだった。
それよりも、今を楽しめるならそれに超したことはないのかもしれない。
慣れないせいか、ちょっと調子が悪くなりがちだけど、それでもいいとさえ思えた。
――なんて、綺麗に纏められたら良かったのにね。
一人では手広に感じられる、ほとんど私物が入っていない部屋の中――自分に割り当てられた、まだ住み慣れない寮の一室で、彼女はベッドに寝転がったままで苦笑する。
あの後、体調不良は起こらなかったものの、クウロに心配されて今日はサイの練習に付き合うことができなかった。シラーが一緒に居ても埋まらない実力差を見せつけられるだけだろうけれど、なんだか寂しい気持ちになった。
「ホントに……私って、こんなに身体が弱かったっけ?」
悔しくて、今はけろっとしている自分に言い聞かせる。けれど、昔のことを思い出そうとしても、なぜか上手く思い出せなかった。
まるで記憶の扉に鍵がかかっているかのよう。それだけ記憶に残っていないことなのか、それとも自分の体調不良に気付くことすらできなかったのか。
「……ずっと部屋の中だったし、あり得なくもないのかな……」
なんて鈍感なんだろう。自嘲気味に微笑んで、そのままごろりと寝返りを打つ。
そのとき、シラーの口元には、自然な笑みが浮かんでいた。
思い出すことを拒むかのような扉は、確かに目の前にあった。だけど、シラーはこのとき、きっと扉に背を向けていたのだと思う。過去に背を向けて、これから先に続く道に目をやっていたのだ。
だから、次に続く言葉は、自然と零れた。
「今日がダメでも、明日またクウロと練習すれば良いから」
彼女にとって初めての友達のために、明日こそはと希望を抱き、そっと目を閉じた。
こんなに明日を望むことが眩しいなんて、もしかしたら今までに無かった感情なのかもしれない。それに気付いたのは、シラーが睡魔に屈しようとしたときだった。
……その感情が過去から目を逸らしていたと痛感させられるのは、明日よりもずっと先となる、一ヶ月後のことだった。