~1~
「……兄さん、どうかした?」
里亜の声がした。僕はそれに気が付いて、顔を向ける。
そこには、いつもとは違って少し困っているような表情をした、妹の姿があった。……話し掛けられなければ、気付いてやれなかったのだろうか。
「まぁ……ちょっと、ね」
僕は無理やりな笑顔を作りながら、曖昧な返事をした。こんなこと、里亜が知ってもしょうがないのだから。
集中力の欠片もない内心を気力で打ち消しながら、部屋の時計を見る。
その時刻は、七時にもなっていた。僕が帰ってきてから、結構な時間が経っていたものだ。外の景色はもう殆どの光を失ってきている。……部屋の電気をつけた覚えは無いから、学校から帰ってきた里亜がつけたのだろう。その証拠に、里亜はまだ制服を着ていた。
僕は嘆息して立ち上がると、ぼんやりとした思考をなんとか纏めながら、
「あ……悪い。まだ、全然夕食の仕度できてない」
……気付くと、僕もまだ制服のままだった。それに、ここは居間だ。こんなところで料理の用意さえせず、放心状態だったのだろうか。僕らしくない。
「なにそれ。……今まで何やってたの?」
「……ぼーっと」
「はぁ…………どうしたのよ、ほんとに」
あからさまに呆れた様子で、ドカッと椅子に腰掛けている。……僕は苦笑した。
その様子に、普段なら何かしらの皮肉を返すであろう里亜は、溜息さえ吐きながら言った。
「そこ、笑うところじゃないでしょ? で、そのちょっとって何があったわけ?」
「だから、大したことじゃないって」
「……大したことじゃない、ねぇ。それなのにこんな死人みたいになるって、人間としてどうよ?」
「疲れてるのかもね、僕。だから、相乗効果で」
「……はぁ」
里亜は大きく溜息を吐いた。
それから、一拍置いてから。
「四葉と何かあったの?」
「――っ!?」
な……なんで、分かったんだよ。どうして、四葉の名前がここで出てくるんだ。
「はい、ビンゴ」
思いっきり図星になる言葉だったため驚いたが、それ自体が大失敗だった。いつもの意地悪そうな笑みを浮かべながら、里亜は肩を竦めていた。
「まさか、一発目の質問でこうなるとは思ってなかったけど……ま、それが可能性として高かったからねぇ」
……そう。里亜も十分すぎるほど、僕と四葉の仲の良さを知っていた。加えて、僕らとは比べ物にならないほど勘のいい妹だ。そう言う事を、割と簡単に割り出してしまったのだろう。
だが、それでも怪訝そうな顔をして、訊ねてくる。
「でも、その落ち込みようって……本当に、半端じゃないよねぇ。どうしたのよ、ホントに」
流石に、こんな非現実的なことは、予想できないか。
「……別に」
「『別に』……じゃない。まったく、こんな兄さん珍しいなぁ」
それから、里亜はふと僕から視線を外して、何かを考え始めた。
そして、
「もしかして、四葉もそんな感じになってたりする?」
「そんなって……どんな」
「だから、今の兄さんみたいな感じに」
……どうだっただろう。案外、それは正しいような気もする。
事実、僕らはバスに乗っていたとき、何一つ言葉を交わすことが無かった。バスを降りた後も、視線を合わせる事は無かった。
僕を気遣ってくれていた様子でもなかっただろう。あれは、知られた事に絶望していたような、そんな印象を与える姿だった。それは、結局のところ僕も同じようなものだったから。
「……多分、ね。僕も四葉も、きっと今、辛いだけだよ」
「ふぅん……」
また、里亜は一人何かを考え込むような仕草を見せる。僕はその間、どうしていいのか分からずにただただ立ち尽くしているだけだった。まだ、あの時のショックが抜けきっていないのだから、それも当然といえば当然なのだが。
そして、里亜は何かを思いついたように「あ、そうだ」と口にした。
「今からちょっと、四葉のところに行って来るね」
それは、思考の鈍りきっている僕でさえ驚かされる言葉だった。
「え? おい、今からかよ……」
「そう、今から。どうせ、まだ夕飯も出来てないなら、暇だからね」
「今帰ってきたばかりだろ、お前」
「何もする事のなくなった兄さんが悪い。まぁ、確かにちょっと部活で疲れてるけど、それくらい大丈夫かな」
僕は嘆息した。……何考えてんだ、こいつ。何が楽しくて精神がボロボロの僕らに負担をかけようとするんだよ。
そう言い掛けた時。
「理由は知らないけど、元気付けるくらいならできるでしょ?」
「……理由知らないで元気付けるって……どうなんだ、それ」
「教えられてないから」
あくまで、僕に非があると言いたいらしい。元気付けると言っている割に、僕への対応は相変わらず酷い。
けど、これは……意外と、いいかもしれない。少なくとも、彼女を傷つける切っ掛けになった僕よりも、仲がいいだけの里亜のほうが、こういう事には向いているのかもしれない。
僕は、今度は自然と小さく微笑みながら、
「ま、頼むよ」
すると、里亜の方も、これでもかというほど嫌な笑みを浮かべながら、
「兄さんこそ、ちゃんと夕飯作ってね。ボーっとせずに。真っ暗な部屋じゃなくて、ちゃんと明るい部屋で。身支度整えて。私が帰ってくるまでに遅れないように」
「……そこまで言うか」
げんなりとした僕に、「あはは」という笑い声を与えてきながら、里亜はさっさと自分の部屋へと移動していった。さすがに、服は着替えるのだろう。
だが……なるほど。案外、他人から元気を得られるものだ。少しだけ、気が楽になったようだ。単純だけど、他の事に視線を向けるときだけ、現実逃避しているときだけは。
四葉も、僕みたいに笑顔が戻ってくれたらいいんだけどなぁ……。それこそ、不幸なんて考えなくてすむくらい。単純に、楽しいだけ。
そう思いながら、僕も自室に戻って私服に着替える事にした。
~2~
里亜が出て行ってから、四十分くらいは時間が経っただろうか。
レトルト食品で揃えた夕食に、また何か嫌みでも言われそうだなぁと思っていると、突然電話が掛かった。
こんな時間に、わざわざ自宅に電話してくるのは……誰だろう。友人なら、大抵はケータイに連絡するだろうけれど。
そう思いながら、僕は受話器を取った。
「はい、幸月です」
『あぁ……兄さん、わたし』
「……なんだ、里亜か」
声の主は、ついさっき四葉の下へと向かった里亜のものだった。
ただし、その音声はどことなく違和感があるような……電話だからだろうか?
『うん、なんていうか……ちょっと、帰るの遅れるかも』
「どうしたんだよ、お前らしくないな」
『あー……そうねぇ。ちょっとわたしらしくないかも。疲れてるのかな』
確かに、その声には疲労感というか、覇気の感じられないというか、そういった様子が窺えた。それが、違和感の正体だったのだろうか。
「わかった。無理するなよ」
『無理してるのは、兄さんたちだって……』
「……は?」
『事情は……四葉にも教えてくれないけど……どうやったら、あんなになるかな』
四葉も、相当つらいんだろうなぁ。それも、里亜にまで言われてしまうほど。
つまりは、僕も四葉も、普段からは想像出来ないくらいには、酷い状態だったのだろうか。
「…………」
僕は、何も声が出せなかった。どう答える事も出来ないまま、ただ里亜の言葉を待っていた。
『ま……いっけど……ね』
それだけの、続ける意思の無いニュアンスの言葉だった。……しかし、これは……なんだか、おかしい。
里亜の声が、どんどん霞んでいった。力らしさも、先ほどからだんだんと薄れている。それこそ、この家を出て行くときとは比べるのもかわいそうになるほど。
これは、幾らなんでも電話越しからでも妙だと思えた。
「おい、本当に大丈夫なのかよ」
僕が訊ねると、二拍くらいの間があってから、
『さぁ……どうだろうね…………。ま、なんとか――――――』
その、直後。
受話器の口から、ガタガタという物々しい音が鳴り響いた。
何かの無機質な物体がぶつかる音と、人が倒れるような音……っ!?
まさか。そんなことって…………嘘だろう!? 冗談じゃない!
「おい……おい、里亜!」
『………』
「おい、返事をしろ! 里亜! 里亜っ!」
帰ってくる事の無い音源。僕は気が動転していて、ただただ虚空に向かって叫び続けるだけだった。
里亜、お前はただ疲れているだけだって言ったじゃないか。それなのに、どうしてこうなるんだよ。お前に一体、何があったんだよ!
――そして、遠くからの声で、こう聞えた。
『え……リア!? どうしたの、リア!』
里亜を呼びかける幼馴染の声が、最悪なシナリオを書き綴っているように思えた。
~3~
深夜。辺りは既に太陽光の残滓さえ残してはいなかった。あるのは、ただ街を照らす蛍光灯の光源だけだ。
そんな中で、僕らは真っ白な個室に居た。
僕と、眠ってしまったままの里亜と……そして、四葉。この三人が、病院の個室の中で黙しているだけだった。
言葉は、ここに来て一度も交わらなかった。最初こそ、里亜のことで最低限の会話はあったものの、今となっては精神的にそれどころではなくなっている。
里亜の症状は……高熱。どうも風邪のようなものらしいのだが……なぜこんなことになったのか、医者からも教えられなかった。分からない、だそうだ。
四葉の話では、里亜は最初こそ慰めの言葉を、カウンセリングでもやっているかのように掛けていたらしい。
が、それから少しずつ様子が変わっていったのは、黒花家を訪れて二十分くらいしてからだそうだ。
それは、四葉からみても少々疑ってしまうような光景で、それこそ風邪を引いていると言われれば納得できる状態だったらしい。ふらふらとして、疲労のピークに近い。そんな印象だったようだ。
それから、里亜は電話を借りたいといってきた。四葉は断る理由も無いため電話を貸して、目を離していたときにそれは起こってしまったようだ。崩れるような物音に足を運んでみれば、里亜が倒れていた、ということだそうだ。
あとは……救急車を呼んだり、証言をしたりするために四葉は来て。僕は唯一傍に居る事の出来る家族なので同行した。結果として、僕らはここに居る。
「里亜……」
僕はポツリと、妹の名前を呟いた。苦しそうに横たわる彼女に、その言葉は聞こえていないだろう。
……と、
「……リア、ごめんね……」
四葉の申し訳無さそうな言葉に、僕は思わず振り向いた。
悲しそうな表情をする彼女に、ようやく言葉をかける。
「どうしたんだ、四葉」
僕が声をかけると、四葉は深く首を落としてから、
「私ね、やっぱり嬉しかったんだ。……あのこと、サイに知られて、なんだか全部わかんなくなってたのに、慰めてくれて。……でも、私は何も出来ないんだよ、こんなことがあったのに」
落ち込んでいたのは、お互いだった。それを取り繕って、仲介してくれていたのは、里亜になるんだよな。結果的に。
だから、この惨事は……余計に、辛い。
どうして、里亜がこんなに不幸な目にあわなくちゃ…………
……まさか。そんな、酷いことあってたまるかよ。そんなの、信じたくなんてない。嘘だと信じていたい。
……そんなシナリオ、誰が望むっていうんだよ。
「……ねぇ、サイ」
項垂れたままの四葉が、ボソリと呟いた。僕は「なに?」と返す。
そして……紡がれた言葉は、誰もが否定したい一言だった。
「これ……私のせいなのかな」
僕も、それを考えてしまったから。でも、そんなこと、考えたくなんて無かった。
僕は……首を振った。
「わからない。でも、里亜も疲れが溜まってたし、診察の結果も過労だろ? 今までの……僕らに起こったことと比べたら、比較にならないほど軽いよ」
それが、今の僕が思いつく最大限の否定だった。けれど、里亜には悪いけど、それが今の僕らにとって最も望んでいる結果だった。何事も無い、ただそれだけの出来事。
「それに、まだこれが『不幸』だって証拠はどこにも無いんだから」
「…………」
四葉は、顔を上げてくれなかった。やはり、まだ心の傷が癒えていないのだろうか。
……静寂の時間が過ぎていく。
それから、また零すように、小さく四葉は言った。
「リア……私たちのことも、心配してたんだよ」
「……『たち』?」
「うん。私たち」
それが、どういった意味なのかは……うっすらとだけ、分かった。
意外と、そういうやつなんだ。里亜は。自分が結構なんでもできる奴だから、他人にあれこれとしてやれる。
そういう、おひとよしな奴なんだ。
「……いっつもそうだよね、私たち」
「そうだな……」
何を話すでもなく、ただそれだけの会話をする。
「案外、サイが言ってることって、ちょっと違うかもね」
「…………二人で、じゃないからな。僕ら、助けられてばっかりだ」
「そうだよね……変わんないね」
「……変わらないな」
それに、これからも変わらない生活を送っていきたい。いつもどおりの日常を、ただ楽しく過ごせたらそれでいいんだ。
四葉は……そのことを苦に思っていたのかもしれないけれど、僕は自分の身勝手で、そうでありたいと思うから。
――と、
「うっ…………」
掠れた呻き声が、苦しそうに息をする里亜から零れる。僕らはすぐにそちらに目を奪われた。
月明かりが窓から差し込む室内で、ゆっくりと妹の双眸が開かれていった。
「里亜……大丈夫か?」
僕は、極力抑えた言葉で話し掛ける。けれど、心では無事であることを確認できたという安堵感が、生まれ始めていた。
里亜はなんだかぼんやりとした顔を横にし、ハッキリしない瞳を僕に動かしてきた。
「……にい……さん……?」
辛そうな声だった。一度は倒れてしまった体力だ。それも無理は無いだろう。
それでも、里亜が無事であってくれたのなら、それが一番良かった。僕は心からホッとした。
「大丈夫……じゃないな、今は」
僕が話し掛けると、里亜は「そう……かもね」と苦笑いしながら、そう言ってきた。
普段ならば、「見て分からないの?」とか言われそうだった。だから、辛いには辛いのだろう。そういったことに、頭が回らないほどに。
――と、その視線が僕を外れて四葉に向けられた。
「リア……良かった」
そういう四葉の頬に、一筋の涙が零れたのを目にした。
「あ、四葉……」
今ごろ気付いたように、里亜は四葉の名前を呟いた。当の本人は「うん、うん」と嬉しそうに頷いている。
その様子に、里亜は感情の作りきれていない顔で、彼女に言った。
「ごめんね……四葉。……迷惑、かけちゃた……?」
「そんなこと……そんなこと、ないよぉ……」
こういうときに泣けるのは、いいことだと思う。そういうのは羨ましい。
僕だって、本当にうれしくて、仕方がないんだから。
「あぁ……泣かれても……困るよ」
「だって……ね? 心配してたんだよ、私」
「はは……」
力なく、里亜が笑った。四葉の言動は、どこかいつも微笑ましい。つられて僕も、少しだけ笑みを浮かべた。
再び、力のない声が里亜から紡がれる。
「そういえば……四葉」
「なに?」
里亜の問いかけに、四葉は答えようとした。
「その……肩……青いの、なに?」
…………え?
いま、里亜はなんて言った? 僕の聞き間違いだったのか? それとも、里亜の見間違いだったのか……?
咄嗟に僕は、硬直してしまった四葉の肩――僕の座っていた位置からでは死角になっていた部分を――へと視線を移した。
そこに……あった。
雀よりも少し小さいくらいの造形の、鮮やかな青い塊が。
「嘘……だろ」
どうして、こんな事になったんだ……。
どうして、この最悪なタイミングで『パンドラの青い鳥』が出て来るんだよ!
この鳥は、『幸運』だといっていた。僕らのように『不幸』を背負っているのとは、真逆の存在だといった。
そして、同時に……これを目視できるのは、『不幸』を――四葉から、与えられた人間だけだ。それ以外の、今までの里亜のような人間には、絶対に目視することなど不可能な存在のはずだった。
四葉の服装は、白を基調としている。青という色は、この『パンドラの青い鳥』意外に該当する物が無かった。
よって、それの存在は……確実に、知られていた。
「……そ……そんなの…………っ!」
瞬間。
椅子がガタンと音を立てて倒れる。
それを無視して、四葉は駆け出してしまった。部屋の扉を乱暴に開けて、瞬時にこの場を飛び出していった。
「な……四葉!」
他の人への心配を何一つ考えず、僕は四葉の名前を呼んだ。
僕も続いて部屋を飛び出すが、既に目に映る範囲に彼女の姿は無かった。近くに階段があり、そうじゃなくても分岐が多い通路を、余計ややこしくしている。これでは、どこに行ってしまったのか分からない。
「……畜生……」
思わず、呟いた。握りこぶしを、痛みなど考えずに握り続ける。自分の力の足りなさが嫌になる。
先の見えない暗闇が、廊下の奥底まで続いているように感じた。