~1~
「おい、大丈夫か!」
見えない相手に向かって、僕は叫んだ。けれどその声は、暗闇の中へ虚しく吸い込まれていく。
その声は、いつもの須山の物とは思えないほど弱々しく、それ以上に――これは、耳にするだけで危険であると分かった。
『ゴホッ……大丈夫じゃ、ないよ……』
あからさまに、その咳は普通じゃなかった。何か重たい物を吐きだしているような、危険な印象を与える音。景色が見えなくとも、それは……いけない。そう、分かった。
こんなの、風邪を引いたからとか、そんなレベルじゃない。……まさか。
「血……か? お前、血を吐いてるんじゃないだろうな!」
『……正解だよ、サイ』
自分の中の、血の気が引いた。途端に焦燥感と絶望感が押し寄せてくる。
――なんで、四葉を探す協力をしてもらった須山が、こんな事になってるんだよ。訳が分からない。しゃれにならない。何が、どうなって――
――いや、そんな場合じゃない。
「お前……そんなことする暇があるなら、さっさと救急車を呼べ! 僕なんかにかまってる場合じゃないだろ、そんなの!」
必死に、僕は須山に話しかける。――と、彼は微かに「ははっ」と笑い声をあげた。
『もう、呼んだよ。……黒花さんが、ね』
――っ!?
一体、僕の知らないところで何が起こってるんだよ。須山は、じゃあ、四葉に出会ってるんじゃないか。……四葉を、見つけたんだろう?
なら、どうしてお前がこんな事になっているんだ。どうして、四葉がその場所に居ないんだよ。
すると、彼は――意外なことを、話した。
『……ゴホッ。……俺が通報したら……どうも、もう来てるとか……でさ。そうなると、彼女が呼んだとしか思えない……グッ……だろ?』
もう、限界が近そうだった。いつ彼が意識を失うかも分からない。それだけで、僕の心は酷く動揺していた。事実を知りたいという思いと、これ以上しゃべってほしくはないという思いが交錯しているようだ。
それでも、須山は続けてくる。
『俺……刺されたんだ…………後ろから、グサッとね』
え……?
須山が嘘を付いているとは、思えない。けれど……どうして、そんな事になったのか、見当がつかなかった。
だって、こんな場所にくるような人間、それも、こんな時間帯にここを通る人なんて、僕らくらいしか――――
おい、須山……お前確か…………いや。
そんなこと……無い。僕が考えていることなんて、思い過ごしだ。
「なぁ、須山……そんなことした奴、誰だ?」
そんなこと、訊いている場合ではないというのは分かっていた。今はただ、須山の伝えたい話だけを、受け止めたいと思えばいいはずだった。
けれど、僕は……訊いていた。心が乱れきった僕は、気づかない内に訊ねていたことを、後から知った。
『さぁ……ね。…………あのとき……余裕なくて、分からなかったから……ゴホッ』
「おい! っ……悪い」
友人に無理をさせたことに、深く心を痛めている自分が居た。声が、沈んでいくのが分かる。……本当に、僕は馬鹿なことをしていた。
しっかりしろ、僕。今は……目的を、成し遂げるために。余計なことを、考えるな。
だから……須山が語りたい事を、聞いておいてやらなくちゃいけない。気遣いたいのは確かだけれど、これ以上苦痛を味わってほしくないけれど、須山がそれを許してくれないだろうから。
だから……言葉を止めてほしいけれど、須山の話だけは、聞き止めておいてやらなくちゃいけないんだ。
『…………これから、二つだけ……伝えるよ……』
「……前置きはいいよ。だから……言いたいことがあるなら、言ってくれ」
そう言ってしまう自分が、恨めしかった。
友人を巻き込んでおいて、どうしてこんな仕打ちをしているんだろうと、思う。
僕の無力さが、悔しかった。
『まず……ぐっ……っ…………黒花さんは……そう、遠くに逃げてない……助けてやれる』
荒い息の下、その言葉が紡がれる。
……里亜と同じだ。他人想いのおひとよしめ……。そんなに僕ら、頼りないのかよ……。
僕の気持ちが分かっているはずが無いのに、そのタイミングで須山の微かな笑い声が聞こえたような、そんな気がした。
まるで、僕の気持ちを少しでも和らげたいと思ってくれているような印象が、そこにあた。
そして、
『あと、一つは――――』
~2~
僕はここにいる。
あの瞬間から望んだ場所。景色なんて関係ない。周りのことなんて、考えちゃいない。
ただ、四葉が居るというだけの、この場所。
けれど、四葉との距離はまだ遠い。暗闇と木々の陰に隠れようとする四葉の姿。足下を流れる川の音によってかき消されていく、四葉の後ずさる足音。それに、全く窺うことの出来ない、四葉の表情。
それが、未だに彼女が僕を拒絶しようとしている、何よりの証拠であるように思えた。
……四葉はまだ、絶望にすがっているのだろう。僕らにとっての日常へ、戻ってこれないと思いこんでいる。……それが、痛いほど伝わってきた。
多分、それは僕が四葉の立場でも同じ事をやっていたと思う。帰る場所を自ら壊してしまった。そんな所に、戻りたくても出来る訳なんて無い。自責の念が、全てを潰してしまうから。
だから、僕は……下がろうとする彼女の背に向けて、大きな声で呼びかけた。
「待ってくれ、四葉!」
自ら遠ざけようとしていた暖かな場所へ、引き戻す言葉を掛けてやる。何度でも、だ。
その声が届いたのか、四葉の動き出そうとしていた足はぴたりと止まった。
……大丈夫。まだ僕の声を、四葉は聞き止めてくれる。やっぱり、四葉は帰ってきたいんだ。僕らのいる場所へ。
僕はそれを確認すると、数歩彼女へと近づいた。一歩一歩の足音が、水流にかき乱されて消えていく。それでも僕は、ここに居る。
しばらくは足を動かそうとしなかった彼女だったが、しかし僕との距離が近づくにつれて、その様子は変わっていった。
深淵のような暗闇の中で、うっすらと彼女の表情が窺え始める。けれど、それはまだ遠すぎる距離で……。
そこで、四葉が僕に向かって言い放った。
「な……なんでここにサイが……サイがいるの!」
それだけで、彼女の声が震えていることが分かった。
……四葉は、脅えている。きっと、僕が現れたことに混乱していて……遠ざけてしまった原因の張本人がここにいるのだから、それも当然というものだろう。
僕を深く傷つけ続けてきたと錯覚されているのだとすれば、この言動も必然だった。
「どうして……こんなところに……」
彼女の姿が、少しだけ後退した。明らかに、僕は遠ざけられている。……胸が、苦しくて仕方がなかった。
こんなの、もう終わりにしてやる。お互いが、辛くて苦しいだけなんて、もう起こさせやしない。
「……だから、僕はここにいる」
ずっと、四葉を助けたいと思っていた。それは、今でも変わらない。
けれど、それによって一番助けられるのは、僕だということにも気づいていた。……僕も弱いままだ。自分が助かりたくて、彼女を助けようとしているようなものだ。
弱い僕。……けれど、だからこそ、僕は僕のままで居られるんだ。
僕は強く四葉を目で捉えると、
「僕は、四葉を助けたいんだ。また、一緒に居たい。いつもに戻りたい。……自分勝手だろ? けど、だから……僕はここにいるんだ」
できるだけ強く。四葉に届くように語りかける。
できるだけ優しく。彼女を怖がらせないように語りかける。
できるだけ……
僕に、できるだけ、できる限りの言葉で、大切な人に伝える。
「けど……私は、もう……これ以上、みんな殺しちゃうのは……嫌だよ……」
「……だけど、こういっちゃ何だけど、四葉は僕の大切な人をまだ殺していない」
中には……バスの事故のように、殺してしまうきっかけもあった。それは、今では取り返しの付かないことで……どうしようもなく、四葉を苦しめたことだ。
「まだ、僕も、里亜も、須山も……」
「須山……くん?」
それを復唱した瞬間、四葉は弾かれるように「いやっ!」と声をあげ、両手で頭を押さえながら、また……僕から、逃げ出そうとする。
「私が……また、私が……私のせいで……」
脅えきった声音で、そう呟いているのが聞こえる。
これは……今でなくとも、話さなければならなかったことだ。けれど、こうなる事は分かっていたはずだった。
犯人は……少なくとも、四葉と関わった。それは須山の言葉から分かっていた。そして……その犯人が、四葉なんじゃないかとも、一瞬思った。
まぁ、そんなはずはなかった。四葉を見れば、分かるから。
四葉は本当に優しすぎて、弱すぎるから。そんな彼女が、須山を傷つけることなんて出来るわけがない。
「須山は……大丈夫だ」
「――――え?」
戸惑いの色が見える声が一つ返ってきた。
「須山は生きている。里亜も、あの後……ちょっと、体力を取り戻したんだ」
「そんな……でも、私の不幸は……全部壊しちゃうから……」
その言葉を、強引に遮って。
「その証拠に、僕がここに居る。だって、おかしいと思わないか? この道は隣町とつながっているのに、僕も須山も四葉の前から出て来てるんだ。……どういうことだと思う?」
突然の質問だったためか、四葉は沈黙してしまった。
その様子を確認した後、僕は四葉に近づく。より、闇の中から四葉の姿が鮮明に映り始めてきた。
……それは、やはり酷く憔悴しきっていたような表情だった。さらに、よく見れば……恐怖に脅えているかのように、震えている。
でも……それを救う手立ても、里亜と須山から貰った。
だから、今は四葉に……絶望の淵から救い出す手を、差し出す。
「ついさっき、須山から教えてもらったんだ。ここに直通で来られる道を」
そう。それが、須山から伝えられた『あと一つ』だ。ここの地理を知り尽くした、地元の人間だけが知っているような、そんな道。
絶望に目を伏せて、道成に歩いていたんじゃ絶対に気づかないような、山の中を突っ切るような道だ。それを須山から教えられたという事実が、彼が生きている証明になる。
場所の都合上、自転車を借りるようなことは出来なかったが……それでも、結果として僕は四葉の歩みを止めることが出来ている。
「でも……なんで、二人とも生きてるの? 私の不幸は、みんな殺しちゃうはずだよ……どうして……?」
動揺していた。それは、当然だった。
今まで、不幸を振りまいていた人間は、僕らの知る限りでは殆どが死んでしまっている。何人が生き残れているか、分からないほどに。
そんな中、里亜と須山が生きている。……須山が不幸に襲われたというのは聞いていないが、それでも、これは奇跡に近いことだった。
でも……僕は、その答えに気づいている。それが、二人から貰ったものだった。
「四葉……一つ、忘れてることがあるだろ?」
「…………なに?」
「僕も、生きているんだよ。それも、二人とは比べ物にならないほど、都合良くね」
「――――あ」
そう。僕は、この騒動が始まる序盤から四葉と共にいて、『不幸』を味わってきた。けれど、僕は生きてここにいる。……それが、全ての答えでもあった。
僕は、もっと四葉との距離を積めた。彼女は、動かない。
そして、僕は知りうる全てを話す。
「僕も、里亜も、須山も生きている。……こんなに、四葉の傍に居たのに。でも、確かに不幸は訪れているんだ。……だけど、みんな助けられてるんだよ。……四葉に」
「なっ――――」
四葉が驚きの声をあげる。
これまで、一度もそうは思われなかった。四葉が全てを壊しているんじゃなくて、四葉がみんなを助けている。そんなこと、一度も思ってなどいなかっただろう。
「そんなこと、あるわけない! 私が……私は逃げようとしてただけなんだよ! ただ辛いってだけで、なんにもせずに逃げようとしただけ! 世界なんて壊れちゃえって、望んだだけ!」
それは、四葉が優しすぎるから。迷惑を極端に嫌って、そんな自分さえ嫌になるほど、優しい人間だから。……僕には、わかった。ただ、本人がそう思っていないだけなんだ。
自己犠牲で済ませてしまおうとする弱さも、優しさも、持っているやつだから。
「けど、それでも四葉は、みんなを助けてたんだよ。僕なんて、特にね」
僕は微笑みかける。もう、四葉との距離は駆け出せばすぐにゼロに出来るほどになっていた。
話を続ける。
「四葉。四葉はさっき、須山に触ったんじゃないか? 死んでいないか不安になって、身体を揺すってみたりさ」
「……うん」
こくりと、小さく頷いた。
「そして、それと同じようなことを里亜にもしなかったか? 意識を失ったなら、なおさらどうにかしないといけないから」
「……そうだよ」
再び、彼女は頷いた。
それが、僕らを救った全ての行動だった。
「そして、僕には炎上するバスの中と、階段から落ちそうになったとき、一回ずつ手を差し出した。……そうだよね?」
「だから、それがどうしたの……?」
「……不幸が起こったとき、四葉が『触れた』人間は、みんな生きているんだ」
それだけの、回答だった。
僕らが生きているか生きていないかなんて、それだけの違いだった。
四葉の瞳が、大きく見開かれる。その真相は、よほど四葉にとって意外だったのだろう。
――そして、これで全てが繋がる。
「そして……四葉が持っているのは、全ての災厄をもたらす不幸と、幸運を呼ぶ『パンドラの青い鳥』だ」
それが、僕の辿り着いた結論だった。
「……この子……が?」
四葉は衝撃を受けた表情のまま、どこからともなく彼女の肩に現れた、掌に収まるほどの青い小鳥を見つめる。
そして、僕へと視線を移してくる。
僕は、自分の考えを話すことにした。
「そもそも、四葉の不幸は……よく分からないけど、自分でも知らずの内に誰かに移って行くんだろ? なら、逆の存在……青い鳥は、どうだと思う?
青い鳥の効力は、すでに四葉が死んでいないことで実証済みなんだ。でないと、不幸の根元の四葉は……死んじゃってるだろうから。でも、それはなかった。今、四葉はここで生きている。だから、僕らも同じ事なんだよ。
四葉が僕らを気遣って、手を差し出してくれたから。青い鳥の力が、僕らにもそのときだけは移ってるんだと思う。そうじゃないと、僕らがこうやって生きている理由が、見あたらないからね」
つまり、それが『パンドラの青い鳥』が、幸運を与える方法なのだろう。
青い鳥を手にしている人が、四葉が不幸を与えられた人に触れていると、起ころうとした不幸の効力を打ち消してしまうんだ。
そうだとすると、全て納得がいく。……正直なところ、僕はこの事実に直前になって気づいたわけだ。情けないよ、まったく。
「そうなると、不幸が現れるたびに出てくる青い鳥って、実はすごくいい存在だったんだよ。こいつが出てくる度に絶望してたけど、ホントは逆だったんだろうね」
里亜のときもそうだった。あいつが出てきたから、里亜の症状は不幸から起こったものじゃないって錯覚できなくなった。けれど、『パンドラの青い鳥』が居なければ、その時点で里亜は死んでしまっていたかもしれないんだ。
……幸運を恐れていた。四葉と、同じものを恐れていたんだな。
「だから……自分が居るから殺すなんて考えるなよ? 四葉が居なくなったら、今度こそ僕らは死んじゃうんだからさ」
言って、僕は笑って見せた。
本当は、そんなことどうでもいい。四葉が戻ってきてくれるのなら、それが一番良い。けれど、その理由を作ってやれるなら、そうしてやりたいから。だから、こう言った。
四葉にしか出来ないことを、教えてあげられた気がした。
四葉は……俯いて。
「けど……もしまた不幸が広がったら、どうするの?」
「そうなる前に、今度こそ方法を見つけるんだよ。それまで、四葉が居る限り、僕らは殺されない。それで十分だ」
それだけで、四葉がみんなと居なければならない理由は、十分だ。そう、思っていてほしい。
そして、次は……僕にとって、居てほしい理由を。
「それに……僕は、四葉といつものように、一緒に居たいからさ。どんなに辛くても、逃げ出したくても、一緒に居てくれたらいいから。その分、僕がきつい時には負担かけると思うけど……」
なんだか、最悪だった。言葉が出てこなくて、なんて言えばいいのか分からなくて……。
だいたい、こんなことを伝えるなんて、思ったことなかったから。変に口ごもって仕方がない。
それで十分だと、本気で思っていたから。考えたことはあったかもしれないけど、口に出して言うなんて、考えもしなかったから。
けれど、僕の思う等身大を、伝えなきゃならないと思うから。
「僕も、四葉のことが好きだから。それだけで、幸福だと思えるんだ」
瞬間、その言葉が彼女に届いたのだろう。突き動かされるようにして、下ろしていた顔を僕に向けてきた。突然の言葉に、驚き戸惑っているようだった。
陳腐な言葉だと、自分でも思う。なんの捻りもない、どこにでもありそうな、告白。
けれど、その中に。……今まで気づいてあげられなかった、一文字を加えた。
――僕も――
結局は、不器用すぎた両想い。築かないまますぎた、楽しいだけの時間の共有。
……そこから先に、四葉は進もうとしていたんだろう。けれど、勇気が無くて、僕はそれに気づいてあげられなくて……。それが、原因でこんなことになってしまったのなら……。
だから、そのお詫びの言葉を、受け取ってほしかった。こんな形でしか表現できない、自分が情けない。ただ、これが僕の精一杯だから。どうしようもないんだろうね。
……けど、それ以上に、すっごく恥ずかしかった。顔が熱くてどうしようもない。
「…………」
四葉は……どう捉えているのか分からないけれど、口を開こうとしなかった。
言葉が出てこなくて狼狽えているように、ただただ落ち着かない様子でその場に立ちつくしている。
そして――再び目を伏せながら、ぼそぼそと言葉を発し始める。
「…………私……も」
それだけで、彼女の気持ちが分かる。何を僕に伝えたいのか、理解できる。
ついさっきの僕もそうだった。何を話して良いのか、分からないのだ。
少し、間があいて。
それから、意を決したように顔を上げてから、真っ直ぐに僕を見つめてきてから。
「私も……幸せだよ。サイが……大好きなサイが、そう言ってくれたから」
それは、彼女なりに最大限の、表現だったみたいだ。
こういう事を面と向かって言うのは、正直なところ僕らにとって経験の無いことで。この気持ちを伝えあった直後だというのに、こんなにも空気がぎこちなくて。
けれど……それは、とても暖かな空気で。ずっと、こうでありたいと思える雰囲気だった。全てが幸せに見えてくるような、奇妙な感覚を覚えられる。
まぁ、そんな気分を楽しむ余裕は、実のところあんまり無いんだけれど。お互いに恥ずかしくって、それどころじゃなかったから。
「あ……うぅ……」
特に酷いのは四葉で。……無理もないか。今までこんな感情を伝えられないとばかり思いこんでいたのだから、それも当然という物だろう。
「あ……えぇと……」
……それは、僕もだね。何を言えばいいのか、どう話しかけて良いのか、もう訳が分からないよ。こういうの、何一つ免疫がないんだからね、僕ら。
……でも、さ。
「今は、辛くないよね……四葉」
不幸を手にしてしまったあの日から。四葉は後悔も苦悩も逃避も、全部の抑圧を受けてきたんだ。だから……今は、そんなこと考えなくても、良いんだよ。
「……う……うん」
彼女を縛っていた感情が消えてしまったからだろうか。四葉は、もう本当に泣きそうな顔をして、そう返してきて……。
やっぱり、四葉には泣いてほしくないんだけど……けど、今回くらいは、いいよね。
「今までごめんね……四葉」
そう言って、僕は四葉を慰める。ある意味では、気づいてあげられなかった事への謝罪なのかもしれないけれど。
「謝らなくても……いいよぉ……」
それは、いつもとは逆のやりとりだった。そのことに、僕は心の中で苦笑を浮かべていた。……なるほど、これは確かに言われたら対応に困るや。
――そして、それからは、いつものように四葉が泣き出してしまって。
けれど……いつもと違ったのは、彼女が僕に泣きついてきたことだった。
普段は一人で泣いていて、それを僕が慰めるのがいつもの通りだったのに。それが、いつもの感じとはかけ離れていて……どう対応したらいいのか全く分からなかった。
だから、相変わらずすごく恥ずかしいのだけれど、僕の胸の中で泣いてしまっている彼女の背中に、両腕を回して……早い話が、抱きしめてあげた。
…………ホントに、自分でやっておきながら凄まじく恥ずかしかったけどね。
でも。
今まで言葉しか掛けられなかったときよりは、ずっと安心させてあげられるような、そんな気がしたんだ。