現実の僕が変化する。一瞬で、右手だけ変化が起こった。
そこだけが現実とはかけ離れた映像として映る。配色は人間のものと同様ではあるものの、その一部分だけが受信率が悪くて画像が乱れたテレビの画面のように、砂嵐のようなものが走っていた。
――電子化――
この『現実仮想』というゲームにおいて、重要とされるもの。プレイヤーの体の一部を――右手しかできないけど――変化させる、非現実的な現象。仮想世界のような、奇異な現象。
それを、この骨だけになった大型犬のような魔物と対峙しながら、使用する。
――と、
「……やっぱりな」
それがあまりにも予想通りすぎる展開で、思わずそんなことを呟いた。いや、予想していたというよりは、なんらかの関係があると思っていただけなのだけど……けれど、それはハッキリとモンスターの体に現れていた。
「え……? どういうこと?」
その変化があまりにも急に起こりすぎたせいか、沙李は呟いてからふらりと魔物に近づこうとして、しかし『動いたら魔物も動く』という特性を思い出したのか、すぐに踏みとどまった。
だから、近寄って調べることが出来ない衝動からか、彼女はその変化を大声で言葉にした。
「なんで……『魔物が電子化』してるの!?」
そう、僕らの前に居る骨だけのモンスターは、僕の右手と同じようになっていた。白い骨組みの体と、目の部分に浮かぶ赤い光。それらが全て、乱れた画像のようになって僕らの前に立っていた。
この急な変化は、僕が見る限りで……僕が『電子化』したのと同時に、魔物にも現れていたようだ。だからこそ、目に見えてこの力と魔物が何らかの関係を持っていると知ることが出来た。
――けど、今はそんなのどうでもいい。最初から興味なんて無い。
「沙李」
戸惑う彼女に向けて、いつものように無気力極まりない声で呼びかける。こんな僕の声音でも、自分の名前が呼ばれたのなら反応も当然、あるはずだ。
案の定、沙李はいきなりの呼びかけに我に返って、バッと僕の方へ顔を向けた。
どうせ、彼女の第一声は決まっている。「どうしてこうなったの」だろう。そんなこと知ったこっちゃ無い。僕は間髪入れずに僕なりの考えを語る。
「どうしてこうなったのか、なんて後でいいだろ。まずは『電子化』して。……それと、今から僕がすることは無視しろ」
「な――っ。……え……あ、うん」
僕は常に無関心すぎる蛍光にあるせいで、普段からあんまり他人に意見を述べたりしないからか、沙李はどこか曖昧に頷いた。が、すぐにさっき習得したばかりの『電子化』を行ない始める。
そして、僕は嘆息一つ吐き出してから次の行動に移った。
僕は数歩、目の前で威嚇しているような格好の魔物に向かって、歩み寄った。
――直後、無視しろといったばかりだというのに、沙李が驚きの声を上げて僕の名を呼んだのだけど、もう遅い。
僕が動いたことによって、エンカウントンモンスターも行動を始めた。しかも、それは行動というのも生ぬるい、明確な敵意を持った『攻撃』だ。
一度この魔物から受けたのと同じ、突進する攻撃。――出来ればあんまり受けたくないその攻撃を、奴は繰り出してくる。しかも、今回は自分から距離を詰めたことによって、よけられる条件なんて皆無であって――
――刹那。魔物の頭部を見据えていた僕の視界が、デタラメに揺れた。
「――ッ!」
胸部に痛みが走る。脳が揺れる。一瞬、アバラが軋んだようにも思えた。
……本当は、こんなことしたくなかった。現実をどうでもいいと思う人間でも、痛いのなんか誰が望むんだか。
――けど。そうすることのメリットがあるなら、この方が『手っ取り早い』と思う。だから、こうした。
痛みをこらえる。どうせ、致命傷じゃないんだ。ただの、突進だ。刃物の傷とかと違って、すぐに死んだりしない。そう、自分の中で割り切る。……割り切って、吹き飛ばされそうになるのを抑えた。
……魔物と接触する間際、骨だけの首を左手で掴めば、踏みとどまることは可能だから。いくらダメージが無くても、『物理的な干渉』で勢いを殺すことくらいならできるんだし。そうじゃなかったら、沙李がこいつを蹴り上げたとき、ちょっと浮くなんてことは無いはずだ。
そして……もう一つ。これが、本来の目的だ。
右手で手刀の形を作り、左手でなるべく頭部の動きを抑えた魔物の『赤い光の瞳』に向かって、突き立てるように右腕を伸ばした。
直後、まるで壁に指をつき立てたかのように硬い感触を覚え、思わず手を引いてしまう。――が、それとほぼ同時のことだった。
狂ったように『ガァァッ!』と唸りながら、掴みとめていた左手を振りほどいて、魔物のほうから距離を置いた。--その魔物の双眸は……本来右目の空洞にあった赤い光は、忽然と消失してしまっている。
「あぁ、やっぱり効くんだな」
傍から見れば単なる目潰しでしかなくて、子供の悪ふざけとしか思えないような攻撃だっただろう。けれど、僕としてはこれが精一杯で、もっとも効果的だと思った。外見のとおり骨なのだから、普通に殴ったりするよりこっちの方がいいと思ったんだ。
「ナガレ!」
魔物がひるんでいた隙を縫って、沙李が僕の傍へとやってくる。……しかも、思いっきり怒りを露にしている。……なんなんだよ、いきなり。
彼女は僕の制服の襟を右手で――すでに『電子化』している――ガッと掴むと、
「なにやってんの!」
「なにって……攻撃に決まってるだろ」
「そうじゃないよ! なんであんな危険なこと……もっと他にあったでしょ!?」
「……はぁ」
人の話、聞いてないなこいつ……こうなることがおぼろげに想像できていたからこそ、『無視しろ』と言っていたのに……感情的になりすぎだよ。まったく。
「お前も、人のこと言えないだろ……あいつ、僕らの『歩行』に対して行動してんのに……」
さっき分かったことだが、僕らの行動に対して相手も行動する、というのなら……『電子化』や手の動きにも反応しておかしくないだろうから。とすると、こう考えた方が正しいように思えた。
――でも、沙李は僕の発言なんてまるで聞き入ろうとはしてくれない。一気に、まくし立ててくる。
「私……心配してるのに、そんな言い方ないでしょ!」
「…………それを言うなら、危険とわかって僕に近づいたお前も、人のこと言えないだろ」
「…………ナガレ……っ!」
沙李はまだ何かを言いたそうだったのだけど、結局何も話すことなく……力なく、俯いた。襟を掴む手も次第に緩んで、僕から零れ落ちてしまった。…………なんだよ、いったい……。
何かにショックを受けてしまったような彼女は、ふらりと一歩、後ろに下がってしまった。それが僕を遠ざけているかのような反応だったのだが、どうしてそうなったのか考えることは、やめた。
その『後退』という行為が――
「っ!」
――それに気がついて、自分でも理解できないほど咄嗟に、動いていた。
――彼女の後退という行動が、魔物を動かすキッカケとなってしまっていた。それに気がついて、僕は右手を伸ばしていた。
行動の後に、次第に理解する。そうすることで、これが自分にとって『体が勝手に動いた』行動なのだと、徐々に理解していった。
僕は……沙李に飛び掛ろうとしていた骸骨の犬に、横から右手を伸ばしていた。それを、行動の後で知った。
「――っ!」『ガッ!』
僕の声と、魔物のどこか電子的な声が、重なる。魔物と一緒に倒れこみ、僕が上から押さえつけるような形になった。
「――ナ……ナーくん!?」
彼女の傍で起こってしまった事態だけに、その挙動はすでに正常を逸してしまっている。おそらく、沙李の中では何がどうなっているのか、現実を捉えられていないのだろう。
――途端、右手に鋭い痛みが走る。……見ると、指の付け根の辺りに切り傷のようなものが生じていた。赤い液体が流れているから、それは間違いなく傷で……。
……あぁ、そりゃ骨身を突き飛ばそうとしたんだから、こうなって当然か。鋭い骨が掠めたんだろう。突き刺さらなかっただけまだマシだ。
「わ、私の……せいで……ごめん! ごめんね、ナガレ!」
もう、泣き出しそうになってしまった沙李の大声が耳に届いて、僕は彼女に視線を向けた。……ただ、いつものように世の中への興味を失った、虚無の瞳で……彼女を、見た。
そこには、声のとおり今にも崩れてしまいそうな沙李がいて……どこにも、迷惑なことばかりするような、マッドサイエンティストらしさはなかった。僕はこんなことになっても気にしていないのだから、彼女もいつもどおりでいればいいのに。
どうしようもなくなって、僕は魔物に向きなおそうとする。
その、とき。
僕はそれに、気がついた。
「いつの間に……」
無理やり逃げ出そうとする魔物を押さえつけながら、僕はささやくような声音で呟いた。
――僕の制服の『襟』が『電子化』していた。
いつのまにこうなったんだ……そう、考えて。考えを瞬時にめぐらせて。
ようやく、このゲームにおいて、魔物の『本来の』倒し方を見出した。
「沙李、よく聞いて」
「――な、なに?」
やや緊張したような声。あの状態から声を掛けられたのだから、それも仕方がないだろうけど……僕は、続けた。
「急いで鉄パイプとか、こいつを一度で破壊できるような武器、探してきてくれ」
「なっ……!? で、でも、魔物に武器って効かないんでしょ?」
「確かに、普通にやったんじゃダメージは無いよ」
そこで、僕はスッと視線を、僕の襟元に向けた。――途端、沙李も驚愕の声を上げた。どうやら彼女も気付いていなかったようだ。
これは、沙李がやったことなのに。
「『電子化』した部分で物に触れると、そこも『電子化』するんじゃないのか?」
あのとき、沙李が感情に任せて掴みかかってきたときに、彼女は右手で襟を握っていた。それ以外、僕の制服の一部分だけが変化するなんてこと、考えられない。――あとは、簡単だ。
勿論、これにはまだ不明確な点もあるのだけど……可能性があるなら、それに委ねたほうがずっといい。
「魔物は僕が止めるから、沙李は急いで」
押さえ込む両腕に力をこめる。同時、右手で抑えていたアバラ骨だけがミシと音を立てた。
沙李は僕の様子を見て、さっきまでの弱弱しさを一転、普段の強さにあふれる瞳と声音で「まってて」と断りを入れると、すぐにコンビニの方へと走り出した。
それに対応して、魔物もじたばたする力を強くする。何が何でも、沙李を追うつもりらしい。――逃がしたら、面倒だ。
僕は左手にできる限りの力を込めて中腰の体勢で立ち上がると、牙をむいてくる頭部へと……残された赤い瞳へと、目標を定める。右手を、再び手刀の構えにする。
「だまれ」
そして、一言呟いて、黒い空洞に指先を突っ込み、赤い光を抉った。ガリッと、不気味な感触が伝わると同時に、片手では押さえられないほどに暴れだした魔物は、僕の手を離れてひたすらのた打ち回った。壊れたラジオのように、ただただ気味の悪い鳴き声を叫びながら、ドタドタと、動き回る。
時折、僕の方へと向かって突っ込んでくるのだけど、視界を閉ざされた魔物には正確な僕の位置を知ることが出来ないらしい。--僕は動いていないのだけど、それでも狂ったように、暴れまわっていた。外見はともかく、生物らしい動きをするそれは……かえって、不気味だった。
「……ナガレ」
ボソリと、消え入るような彼女の声がする。目を移すと、沙李はどこからか――恐らく、コンビニの廃品なのだろう――ボロボロになり、使い物にならなくなったパイプ椅子を抱えて戻ってきていた。
「やっぱり、これも『電子化』するよ」
見ると、確かに沙李が触れていた鉄の部分が乱れた画像のようになっていた。それは、確実に『電子化』の現象だった。
「…………」
それから、沙李は無言でガムシャラに動く骨の魔物を睨みつけると、ガリガリと音を立ててパイプ椅子を引きずり、近づいてから右手でパイプをなぞるように触れた。
――音を立てて近づいたことで、魔物は沙李の居場所を知ったらしい。だけど……突っ込んでくる魔物は、振り上げたパイプ椅子の存在を、知らない。
魔物が接近した途端、椅子の間合いに入った直後、
「ああああああぁぁぁぁっ!」
沙李が、叫んだ。
叫んで、勢いよくパイプ椅子を振り下ろした。それは、ちょうど魔物の頭部を捕らえる。
何かが砕けるような音がした。そして、地に伏す魔物の姿が、そこにはあった。
これが、僕らにとってモンスターとの戦いで、最初の勝利だった。