~1~
「……まったく、律子さんもなんだかんだで、人がいいんだから」
病院の玄関でケータイの画面を見て、兄さんの部屋番号を確認してから電源を切った。
午前十時。今日も今日で両親は仕事なので、病院を訪れるのにそう苦労は無かった。……お母さんの気持ちを踏みにじったという罪悪感は拭いきれないけれど。
律子さんから受け取ったメールは、平日どおりバスでここを訪れていると、いきなり入ってきたものだ。それには、おおむねお母さんが語った情報と合致する兄さんの現状と、部屋の所在が書かれていた。
兄さんの部屋くらい、受付で聞けばすぐに割れることだし、兄さんの状態も私が理解していることくらい、考えればわかると思うのだけど……それでもわざわざメールを送って来てくれたのは、きっと、律子さんも協力したかったからだろう。
……律子さんも、辛い事があったみたいだから……同族意識とでもいうか。なんとなく、無視できないんだと思う。
「……会ったら、すぐに謝んないとな」
呟いて、私は病院の中に足を踏み入れた。
病室の場所は、私も最近まで入院していたのだからよくわかる。階段を上って、何度か見た事のある光景を目に映す。
そうして、すぐに兄さんの居る階層まで来ると、番号を自然と一つ一つ確認しながら、廊下を進んでいった。――と。
「里亜ちゃん……やっぱり、来たのね」
「あ、律子さん。おはようございます」
後ろから声を掛けられたので、習慣のように挨拶を行った。振り返ると、目の前に現れた気だるそうな看護士――律子さんは、「ん、おはよう」と、めんどくさそうに挨拶を返してくれた。
「メールは読んだ?」
ぶっきらぼうな言い方で、彼女は訊ねて来る。私はすぐに頷いた。
「ええ、ありがとうございました。……やっぱり、兄さんは……」
実際、姿を見ていないのだからわからないけれど……律子さんのメールにも、やはり『死人のようだ』という、不吉な形容文があった。……それを、気が進まないけれど確認する。
「……あれは、酷いわね。魂が抜けたみたいで……あんまり、好き好んで見るような姿じゃないわ、今の裁くん」
……律子さんまで気を掛けてくれているのだから、やっぱり昨日お母さんが『会わない方がいい』と言った理由は、私を傷つけたくないからなんだと思う。傍から見て、私は兄さんに一番会いたがっていただろうから。少なくとも、四葉が居なくなった今、最も兄さんを心配しているのは私だろう。
……それでも。
「わかりました。……でも、私は行きますね。そうじゃないと、ここまで来た意味ありませんから」
実際、もう病室はすぐそこなんだ。それを躊躇って、わざわざ引き返すようなマネしたくない。
私の返答を予想していたのだろう。律子さんは「やっぱりね」と溜息混じりに零しながら、私を横切ってさっさと廊下を歩いていってしまう。……律子さん?
「行くんだったら、さっさと行くわよ」
「え……行くだけなら、一人でもいいんですけど……」
そこまで子どもに見られているのか、私は?
しかし律子さん、珍しく苦笑を浮かべながら。
「ここまで付き合ったんだから、もうちょっと協力させなさいよ。……仕事をさぼる口実になるし」
「そこが本音ですか」
少しは見直そうと思っていたのに……やっぱりこの人、無気力だ。怠け者だ。
……まぁ、それでも、自分からこういうことに首を突っ込んでくるのも、律子さんにしては珍しいかな。最初に会った頃なら、間違いなく我関せずだっただろうし。
私は嘆息を一つ吐き出してから、律子さんの後を追った。
けれど、そこは同じ階層だ。その部屋の前に立つのに、そう時間が掛かるわけが無かった。
「……朝見たときは、殆ど反応なんて無かった」
扉の前に差し掛かって、律子さんが呟いた。
「さぼる……ていうか、ただ見てみたいだけなのかもね。興味本位の問題か。あの裁くんが、ちょっとでも元気になるのが、見てみたいだけなのよ」
「…………そう、ですか」
きっと、律子さんも兄さんに話し掛けたりしたんだろうな。律子さんのそれは、興味本位なんかじゃなくて、心配って感情なんだろう。
――そんなことを考えて、でも、すぐに気持ちを切り替える。
扉を軽くノックする。けれど、声は何一つ返ってこなかった。
ドアノブに手をかけて、音をあんまり立てないように押し込んだ。そうして、部屋の様子が一度に視界へと飛び込んできた。一人部屋に、窓から差し込む光が満ちていた。
昨日今日の出来事だったため、その部屋はガランとしていて……須山さんと最初に出会った光景を想起させた。あのときも、ただ白い箱のような場所に、最低限の設備が備わっていただけだったから。
そして――
「あ…………」
ベッドに、待ち望んだ人が居た。上体を起して、パジャマを着せられている……俯いたままの、兄さんが居た。
律子さんが室内に入ってきたのを確認して扉を閉めると、はやる気持ちを押さえ込んで兄さんの傍に歩み寄る。
最期に会ったときよりも、ちょっと伸びた髪。痩せた……というより、やつれたと表現した方がしっくりくる顔つき。体格も、私の知っている兄さんより細く見えるけれど……。
兄弟揃って、癖がついているといわれた髪も。本人は『特徴の無い』といっている顔つきも。そして……なにより、長い間近くに居たからこそ、その雰囲気が。全てが、彼を『幸月裁』だと照明しているようだった。
「……兄さん」
だけど……伸びた前髪がかかろうとするその瞳は、人形のように光を失っている。淀んだ、感情の欠落した、そんな瞳。比例するように、表情を作る事の無い顔。……なるほど、兄さんのことを『死人のようだ』と比喩していた理由も、否応無しに理解できる。
「……ずっと、こうなんですか?」
耐えられなかった。こんな兄さんを直視するのが辛くて、俯いて、一緒に来てくれた律子さんに訊ねた。
「そうね……少なくとも、アタシが最初に見たときから、こうだったわ」
言いようの無い感覚が、押し寄せてくる。寒気よりも酷くて、頭痛よりも痛くて、怒りなんて通り越して……どうしようもなく泣き出してしまいそうになる、吐き気を催すような……表現の仕様の無い、悪夢のような感覚に捕われる。
――次いで、私の両膝は床に付いていた。この、不快な衝動と、涙を堪えるのに必死になって、身体が行動を放棄していた。
…………お母さん、やっぱり、お母さんの言ってたこと正しかったよ。
こんなに辛いなんて思っていなかった。兄さんに会えることだけを、心のそこで喜んでいたんだろう。上辺に不安を留めているつもりで、根底は楽しみにしていたんだろう。……そんな軽率な行動の結果がこれじゃ、笑われても仕方が無いかな。
「……四葉なら、どうしたかな?」
誰も返事をしないのはわかっていた。けれど、訊ねたかった。確かに兄さんと居る時間は長かったけど……いつも傍にあった存在は、四葉だから。彼女なら、こんなときなんていうんだろう……。
……今になっては、そんなことわからない。……でも。
「兄さん……」
震える膝を押さえつけて、立ち上がる。――どうにかしたいから。こんな、悪夢。
「……何か言ってよ、兄さん……」
俯いて……声まで震えているけれど、涙なんて流せなかった。弱い私を表に出したくなくて、ただただ必死で呼びかける。
「私……まだ、兄さんになにがあったか、全然聞いていないんだよ……私がどれだけバカ兄さんのために苦労したか、わかってるの?」
無茶苦茶だ、私。そんなの、兄さんに分かるわけ無いじゃないか。
「辛いのは……兄さんだけじゃないのに。私たちだって、兄さんが居なくなって、どれだけ辛かったか……わかってよ」
情けない声しか出なかった。
「……四葉もきっと、こんなこと望んでなかったよ……」
何を言っているんだろう、私……。わけ、わかんない。
…………でも。
「……兄…………さん……」
私に出来る事があるなら、なんとかしてあげたかった。
「――リ……ア?」
――え? 今の声は……。
下ばかり向いていた顔を勢いに任せて持ち上げる。
そこに居たのは……まだ、光のない目をした兄さんだけど……顔が、私に向いていた。
「……兄さん?」
今まで何も反応を示さなかった兄さんが、私を見ていた。少しだけ覆っている前髪の奥で、瞳がこちらを窺っていた。
「裁くんが……動いた?」
律子さんも困惑を隠せない様子だった。それだけ、人形のような兄さんの姿が頭に焼きついてしまっていたのだろう。
「里亜……」
もう一度、私の名前を呼ぶ兄さん。小さな声でも、それは確かに聞えていた。
胸の内から湧き出ていた暗い気持ちが、最初から無かったかのように消えていく。それが引き金にでもなったらしく、私は微笑んで頷いた。
「お帰り、兄さん。……返事してくれて――」
「――ない」
「……ん? なに?」
私の言葉を遮って、兄さんは何かをいった。こういうときに無理させちゃ悪いんだろうけど、話してもらうよう促した。
「里亜は……死んで、ない」
「え? あぁ、病気だったら大丈夫だよ」
……おかしい。何かが、変だ。そんなこと、すぐにでもわかった。
勿論、兄さんが私に掛かった原因不明の病の完治を知るはずがない。けれど……それは、『パンドラの青い鳥』をよこした兄さんが一番その理由を知っているんじゃないの?
「……僕も……死んでない」
――兄さんが、両手で頭を抱えた。頭痛を堪えるように、俯いて。
「里亜は、死ぬはずがない……僕は、死ぬはず……パンドラの……青い鳥は、里亜が持ってるから……」
「ちょっと、兄さん?」
なんなんだ、これは!?
思わず兄さんの肩を掴んだけれど、強い力で振られた腕に弾かれてしまった。
私の行動が火をつけたかのように、また、意味不明の言葉が紡がれていく。
「じゃあ、どうして僕は生きているんだ……死ぬはずじゃないのか……不幸はどうなった! なんで……青い鳥は、そこにあるのに……僕は……僕は! なんで、こんなことになっているんだよ……死んでないじゃないか!」
声が、どんどん大きくなる。叫び声と形容した方がしっくりくるような、絶望に満ちた声。目の前で兄さんがそうしているのに、私は何も出来なかった。動くことが、止める事が、出来なかった。
「なんで……死ぬはずじゃないのかよ……僕は……どうして、生きてるんだ! あ……あぁ、っ……四葉……なんで……四葉っ!」
「――っ! 裁!」
突如、もう一つの声が割って入った。扉を壊すのかと思うほどの勢いで、男の人の声が――須山さんが、入ってきた。
須山さんはすぐに兄さんの近くまで駆け寄ると、錯乱状態の兄さんに向かって腕を突き出した。それに耐えられなくて、兄さんはベッドの上に転がった。どこかにぶつかったかのような、硬い音まで響いた。
さらに、須山さんは倒れた兄さんの両腕を強引に掴むと、私たちに向かって怒りをぶつけるような声で叫ぶ。
「里亜ちゃんは足を止めて! 律子さんは誰かを呼んでください、急いで!」
――ハッとなり、私たちは弾かれるように言われた行動を行った。
暴れる兄さんの両足なんとか掴み、力の限りを尽くして動きを奪う。律子さんは私が動いたのと同時くらいに部屋を出て行った。直後、「患者が暴れてる、急いで来て!」という非常時のマニュアル的な、それでいて的確な指示を下した。
「死ねない……僕は……どうして……死にたい……死にたい!」
「裁! 何を言っているんだ、お前!」
今まで訊いた事の無いような、須山さんの怒り。こんな口調も、激昂した表情も、普段の須山さんなら影も見せないはずなのに。
「死にたいだと? お前、そんなこと言うやつじゃないだろ! 何があったんだよ、裁!」
「僕は……僕は……死ねるはずなのに……」
「――っ! ふざけるなっ! どうしてお前がそんな事になるんだ! 裁は……俺を助けてくれたお前が、なんでそんなこと言うんだ! 答えろ!」
――須山さんの怒声に、逃れようの無いほどの恐怖心が襲い掛かってきた。こんな、激情に任せた須山さんを知らなかったのもある。だけど、それ以上に……このままでは、兄さんを殺してしまうんじゃないかと思うくらい、感情的になっていたから。
「す……須山さん、落ち着いてください!」
「裁! お前、何とか言えよ!」
「須山さん!」
止めないといけないと思った。頭の中がいろんなことでぐちゃぐちゃになりそうだけど、須山さんを止めることが最優先だと思ったから。
私が必死になって訴えかけると、須山さんは急に冷静さを取り戻したように「……すまない」と申し訳無さそうに頭を下げた。心なしか、兄さんの自由を奪う手が、緩んでいくように見えた。
これ以上ないほどに荒れた場が、水を打ったように静まり返る。それを期に、私たちは兄さんの束縛を解いた。
……兄さんは、何を思ったのかわからないけど……「里亜……須山……」と、私たちの名前を呟いてから、叫びと共に浮かんでいた涙を拭いながら、独り言のように零した。
「……誰でもいいから……僕を、殺してくれ……僕は、死ねないから……」
……なんで、そんなことを言うの……。私たちに、それを理解する術は、まだ無いのに。
――沈黙の最中、「ごめんね」って声が聞えた気がした。……もし彼女が生きていたら、やっぱりそう言うんだろうな。……役に立てなくてごめん、四葉。
律子さんが戻ってきたとき、兄さんは眠りについていた。
~2~
「裁くんは精神的動揺が原因で発狂に至った。そして、動揺の発端は……里亜ちゃんらしいわね」
律子さんに状況を伝えられて、私の気持ちは酷く落ち込んでいた。
昼になって、私と須山さんは集中治療室の前に呼び出された。使う予定も無く、人目につかない場所だから、ということらしい。
私は「すみませんでした」と謝ると、律子さんは片手を振って「それはいいの」と言ってくれた。
「今まで、事態が事態だったから、今回ばかりは仕方が無いわね。でも、裁くんが落ち着くまでは、会わない方が賢明ね。……まぁ、それくらいは分かるでしょう?」
「はい……」
律子さんは、別に私を慰めるつもりは無いんだと思う。彼女なりに状況を報告して、事のままに話しているだけなんだ。
――だから、須山さんに向けられた目が厳しかったのは、忠告の意味を持っているんだろう。
「問題……というほどでもないけど、裁くんの両手は強く押さえ込まれたことで少し腫れているみたいで……まぁ、軽い捻挫と思ってもらえばいいわ。あと、突き飛ばされたときにどこかぶつけたらしく、アザもあったそうね」
「……そうでしょうね。これは、俺の失態ですから。それくらいはわかります」
椅子に腰掛け、手を組んでいる須山さんの表情は、なんだか疲れているみたいだった。
「これに関しても、来歩くんに非があるわけではないから、強くはいえないわね。加減をしろ、といってもあれは仕方が無かったし……でも、注意してもらいたいわ。
もっとも、何も出来なかったアタシも同罪なのよ。……責任があるとすれば、アタシだけでしょうね。あの事態に動けなかったから」
……それについても、私たちは非があると言えなかった。もし律子さんが止めようとしていたとしても、私が妨害しただろうし。須山さんも、あんな方法で兄さんを無力化したことが正しい判断であるとは思ってないんだろう。
「……だから、今回はただの事故。悪いのは誰でもないということになるわ」
「そうだとしても……やりきれませんけどね」
私が思わず口にした言葉を、二人は無言で受け取って、首を縦に振った。
「伝えるのはそれだけよ。……もし、裁くんに何かあったら、伝えるわ」
「わかりました」「お願いします」
須山さんと一緒に会釈した。
そうして、律子さんはすぐにこの場を離れていく。……私と須山さん、二人だけが取り残された。
気まずい空気が漂う。……だけど。
「須山さん……兄さんを止めてくれて、ありがとうございました」
彼に向かって礼をする。須山さんは「いや」と首を横に振った。
「俺は、あんなタイミングで部屋に入ってきてしまって……思わず裁を止めただけだよ」
それは、言い逃れをするつもりなんてない、純粋な謝罪のようだった。申し訳無さそうに話す須山さんに……私は、何て言えばいいのか分からなかった。
結局、律子さんの言うとおりなんだろう。全員が何らかの失態を引き起こしたけど、全て予想外の出来事だった。だけど、私も須山さんも、兄さんを傷つけてしまったという罪悪感から逃れられないんだ。
嫌な沈黙が生まれた。ただ、無情に時が経過していくだけの、意味の無い時間。
……私たちの願いは現実のものとなったのに、どうしてこんなことになるんだろう。……私たちが望んできたことは、間違いだとでもいうんだろうか?
……いいや、違う。
私たちは、読み違えていたんだ。望んだ願いに、予期せぬ闇が潜んでいただけ。それだけで、全てが壊れそうになっている。……それだけなんだ。
「……俺が」
無言が刻む時の中、須山さんの言葉が落ちた。
「俺が、どうしてあの時怒鳴ったか……俺らしくもない言動に走ったか、里亜ちゃんはわかるかい?」
いきなり与えられた質問に、首を振って答える。
「いえ……でも、兄さんの言動が須山さんの琴線に触れたのは、確かですよね」
「ご明察。……俺にとって、裁があんな姿で現れたのも勿論、『死にたい』なんて口にしたのが許せなかったんだよ」
「……それは、あの時『助けてくれた』って言ったことと、関係あるんですね?」
何気なく答えると、須山さんは唖然とした表情で「よく覚えてたね……」と呟いた。
「そのとおりだよ。……俺は、裁がいなけりゃどうなっていたか、わからないからねぇ」
「兄さんが?」
そのイメージがはっきり浮かばなくて、思わず首を傾げた。
「兄さんなんて、どこにでもいるような人間ですよ? 鈍感ですけど、凡人そのものじゃないですか」
「だから、だろうね」
ますます分からない。理解する以前に、兄さんと須山さんとの関連性が連想されなかったのが、そもそもの問題なのだろうけれど。
私が疑問視していると、須山さんはフッと笑みを浮かべて、天井を見上げながら。
「俺は……『ライフ』なんて名前ほど似合わない人生、歩んでいたからね」