~1~
ライフ……『生命』という意味で捉えられる名前を、どうして両親は俺に授けたのか知らない。子どもの無事を祈りたい、という思惑があったのかもしれないが……こんな事を考えた事が無かったし、訊ねたことも無いのでわからない。
だけど、俺は少なくとも……中学のころ裁と出会うまで、この名前は皮肉でしかなかった。名づけの親に、そうさせられたから……いや、させられたなんて思うのも間違いだろう。気がついたら、そうなっていた。
俺の母は子どもの学習に熱を入れる人間だったためか、こんな田舎みたいな場所だというのに、やたらと俺に勉強を教えた。どうやら、母の兄が勉強に関してルーズだったため、いざこざが絶えなかったらしい。
ともかく、俺は裁と出会うまで、ずっと勉強に励んでいた。思えば……小学生のころは、ずっとそうしていたかもしれない。
さらに幸か不幸か俺は……周囲から見れば、運動も勉強もよくできる人間だったらしい。だから、勉強に躓くなんてことは殆ど無かった。ずっと、新たに教えられる事を淡々と知り、応用力とする……そういうことが、できていた。
……そうだね。淡々とできていたから、問題だったんだ。
勉強自体が苦であると思わない自分が居た。ただ、家に帰って様々なことを覚えて……それを、延々と繰り返す毎日を送っていた。それが、当たり前になっていたんだ。
おかげで、人と関わることは極端に少なかった。今思えば、俺は抜け殻だったね。生きてはいるけど、黙々と学習を繰り返して、作った笑顔を浮かべながら母を喜ばせる……何の疑心もなく、そんな生き方を続けていた。
そんな俺だから、先生からの評価は高い。けど、こんな俺を友だち扱いする人間は殆どいなかった。それだけ、当時の俺は近寄り難い存在だったんだろう。
……だから。
中学に進学するとき、母を事故で無くしてしまった時は……言いようの無い不安に駆られたんだ。
その時はまだ、小学生と中学生の中間くらいだった。精神的にも幼い。当然、俺の中で悲しみは深かった。そりゃあ、身近な存在を失えば……苦しいものさ。……里亜ちゃんも、それは分かるだろう?
けれど、それ以上に、俺にとって問題があった。
生活に関しては父が居るし、祖父母も同居しているから特に問題は無い。……けれど、俺にとって母の存在は『道しるべ』だったんだよ。
傍目からすれば、ずっと勉強を押し付けてきた人間が居なくなったと思うかもしれない。でもね、それまで抜け殻だった俺は、母の指示によって生き長らえていたようなものだったんだよ。
……それが、無くなった。とてつもない不安が押し寄せてくるさ。
それまで、対人関係が――小学生の頃だって、必要最低限しか話さないような俺が、広大すぎる自由を手に入れたって……どうにもならないんだよ。
俺が手にしていたのは、異常なまでに身に付いた学力と、備わっていた運動能力。……一応表情を作ることもできたけど、だからってどうにもならないだろう? 完全な人形だったんだよ、俺は。
それに父は、あまり教育についてあれこれ言わない人間だったからね。育児が苦手だとかそういう意味ではなくて……心優しい人間だけど、基本は放任主義だったんだろう。子どもと遊んだり、話し相手になったりはするけど、やりたいことはやらせる、そんな親だ。
……だからこそ、俺は失望していた。人生の全てが暗闇に閉ざされた、そう思うほどだった。
…………世界は、不安の対象でしかなかった。
~2~
「……そんなとき、兄さんが現れた」
「ご明察」
俺はフッと笑いかけながら、里亜ちゃんを褒めるように言った。
もっとも、里亜ちゃんはずっと俺の話を聞いてくれたのだし、話の流れからしてもそれ以外思い浮かばないだろう。
俺はそのときの事を脳裏に思い描きながら、続きを語る事にした。
「中学になって、俺はどう映っていたのか知らないけど……まぁ、入学当初はそう問題ではなかったんだ。あまり目立とうとしないし、環境に不慣れな人間ばかりだからね。……でも、さすがに一ヶ月ともなると、少々問題が現れ出したんだけどねぇ」
「環境に慣れて、グループもそれなりに形成されてきますからね。私も、そんなものでした」
「そういうことさ。対話さえあんまりやらなかった俺だから、そのころはまだ孤立していてね……勉強も日常生活も問題なく過ごせたけど、やっぱり孤立していたさ」
……そんなとき、だったか。
「でも、ある日……隣の席だった裁が話し掛けてきたんだ。『教科書忘れたから見せてもらえる?』だった、かな」
「…………バカ兄さん」
今までの話が話だっただけに、里亜ちゃんは落胆を隠せていないようだった。あからさまな溜息を吐き出して、がっくり肩を落としていた。無理も無いだろうけど。
しかし、俺は苦笑いして。
「俺は今ままでの癖で教科書は一度目を通していたし、最悪、また返してもらえばいいだけだと思っていたから貸したよ。……そんなときに、別のクラスの女の子が入ってきた」
「……え? まさか……」
「そう、黒花さんだよ」
ここまでで、里亜ちゃんは話の流れを粗方把握したのだろう。……その頃はまだ、仲がいいだけの二人だったかな。
「多分、察しがついていると思うけど、裁は黒花さんに教科書を貸していたんだ。バスの中で、黒花さんが忘れたと思い込んでいたんだろうねぇ。彼女の机の中から見つかったってことで、裁に教科書を返す為にオロオロしながら入ってきたよ」
人間、慣れない環境に足を踏み入れるのは苦手だろう。特に、内気な黒花さんはそれが顕著に表れていた。……彼女の性格上、教室の入り口から裁を呼ぶようなマネできないだろうし。
「で、その時はホームルームが終わった直後。……ここで、おかしいと思わないかい?」
「……ホームルームって段階で、十分おかしいです」
嘆息しながら答える里亜ちゃんに、俺は苦笑で返した。
「そういうことさ。裁のやつ、最初の授業で使う教科書をわざわざ貸して、俺に借りようしていたんだよ」
これだけだと、ただのバカにしか見えないが……思うに、裁は優しいから、すぐに貸してやったんだろう。……黒花さんからすればいい迷惑になってしまったわけだが。
「結局、裁はしどろもどろになって教科書を返してくれたわけだ。『あ、ありがとう』って、言われたよ。俺は何もしていないのにね。……まぁ、それがある意味で、仲良くなるキッカケになったんだけど」
そうして、俺は一呼吸置いてから。
「……それに、これが俺にとって、最初に触れた日常の光景だったんだよねぇ」
抜け殻だった俺が、あの時、誰にも気付かれないように小さく笑っていたから。……心から『面白い』と思えて、初めて感情的になれたような気がした。……俺を、不安という絶望から救ってくれたのは、裁だったんだ。
「だから、裁は俺を助けてくれたってことになるんだろうねぇ。あれから、俺も友人と呼べる人間が――俺の性格はともかく、勉強面なんかで慕われていたからこそ、増えていったよ」
注釈するならば、それまでの生活を与えていた母による反動の為なのか、女性に話し掛けたりするのが苦手だったわけだけれど。裁でもわかるほど、黒花さんと初めて会話した時はギクシャクしていたくらいだ。
「それでも、須山さんにとって兄さんは特別な存在、なんですね」
「……そうだろうね。ひょっとしたら、俺が親友と思っているのは、裁だけなのかもしれない。ある意味、命の恩人だからね。……だから許せなかったんだ」
声のトーンが落ちる。普段、意識して浮かべている笑みを消して、拳を強く握った。
「裁が、俺を助けてくれた友人が……死にたいだの、死ねないだの言うのが、どうしようもなく許せなかった。昔の俺を見ているようで、気味が悪かったのもあるんだろうね。……はは、八つ当たりじゃないか、これじゃ」
日常に引きずり込んでくれた裁が、こんな形で帰ってきたことが、苛立たしかった。だから、怒りが先走ってしまったんだろう。
……今思えば、そんなことをした自分がいかにバカだったか思い知らされるのだけれど……。……それでも、俺が感情的になってしまうほどなのだから、今の裁はなんとしても元に戻って欲しい。
「だから、俺は裁を助けるさ。……だから、また協力してくれるかい?」
訊ねると、里亜ちゃんはキョトンと目を向けながら、けれどすぐに微笑みかけてきて。
「それはこっちの台詞ですよ。まだ、協力してくださいね」
やれやれ……先日、「今までありがとう」といっていた俺たちはなんだったんだろうねぇ。こんな事になるなら、そう言う必要なんて無かったじゃないか。
けれど、これで俺たちのやるべき事は……裁を助けること。そして、事件の背景を知ること、だ。
俺と里亜ちゃんはそうして、ガラにも無く意識を高める。
――と、ふと、視界に奇妙な物が飛び込んできた。
「……ねぇ、里亜ちゃん」
「なんですか?」
彼女は気付いていないようなので、俺はそれを指差して、訊ねた。
里亜ちゃんの肩に止まっている、こんな光の届かない場所でも色を損なわない――
「その青い小鳥、どうしたんだい?」
~3~
「……え、須山さん……?」
私の右肩で羽を休めるように停まっていた、スズメ程度の小さな小鳥に指先を向ける須山さんに、驚きを隠すことが出来なかった。
――須山さん、『パンドラの青い鳥』が見えている?
「本当に、見えてるんですか? この子のこと」
「……なんだって? じゃあ、それが裁が残したっていう『パンドラの青い鳥』なのかい?」
やっぱり、須山さんは見えている。『パンドラの青い鳥』が……普通の人には目視する事ができないはずの、青空色の小さな鳥の姿が。
「確かに、この子が『パンドラの青い鳥』です。今まで姿を見せなかったんですが、須山さんが話しているときに、ちょっと出てきたんですよ。呼び出せば出てきますけど、普段は神出鬼没なので……でも、どうして見えるんです?」
「俺にもよく分からないよ。ふと目をやると、そこに青い鳥がいたから気になっただけだから……」
「……そう、ですか……」
今までの須山さんは見えている様子がなかったし、それに、何度か顔合わせしたときにもこの子は出てきていた。だから、もし最初から見えているなら気付いて当然なんだ。
……兄さんに会ったから、見えるようになった? いや、それならお母さんや律子さんが真っ先に見つけているはずだ。
須山さんが嘘をついていた……それも、おかしい。嘘をつくメリットもないし、今見える事を話すのも不自然だ。なにより、本人が一番不思議そうな顔をしている。
……けれど、須山さんが『パンドラの青い鳥』を目にするための、何らかの条件を満たしたのは事実なんだろう。そうじゃなければ、今起こっている事に説明がつかない。
「やっぱりこれ、兄さんに話を聞くしかないみたいですね」
今の私たちでも、推測できないことは無い。兄さんがこの子と病気に何らかの関係があることをほのめかしていたし……見える事と、何かの繋がりがあるのだろう。問題は、何と繋がっているのか、だけど。
「そうするしかないみたいだねぇ……まったく、どうしてこう分からないことばかり続くんだい、この事件は」
悪態づく須山さんに、私は同意した。何をどうすれば解決に繋がるんだ、これは。
私たちはそこで話を一区切りして、これからの事を話し始めた。
「……まず、兄さんをどうにかしないといけないんでしょうけど……これから、どうします?」
この謎を追うことを決めたのはいいけど、肝心な情報が私たちには欠けている。それを知るためには……兄さんの知っている事を聞きだす必要があるだろう。
「どうするも、まず裁が起きてくれなければ話にならないだろう? だから……目が覚めるのを待つしかないんじゃないかい?」
「……結局、それしかないですよね」
溜息ばかりが出てくる。どうして、私たちの捜査はこんなに進展がないんだか。
私はゆっくりと立ち上がると、須山さんに自分の考えを伝える事にした。
「とりあえず、今日のところは一度兄さんと会ってみて、どうにもならなければ帰ります。もともと、お母さんからはここに来ること止められていましたから」
いざとなれば、瑠子たちと会っていたなんて言い訳できないことも無いけれど。それに、ばれたところで私に非があるわけじゃない。会いたかった、それだけで十分通用するだろう。
私が立ち上がったのに合わせるように、須山さんも腰を上げた。
「俺もそうするよ。どうせ、このまま帰っても後味悪いだけだからね」
「……そうですね」
本当だったら、兄さんはもっと休んでいなきゃいけなかったんだと思う。それを、私たちが無理やり起したから。……心の整理がつかないままだったから、こんな事になったんだと思う。
だからせめて……眠っている兄さんに謝って、帰ろうと思った。
……隣を歩く須山さんは、いつものように優しげな笑みを浮かべていた。
なのに……時折辛そうに口を歪めたのは、気のせいじゃないだろう。