孤独を感じたことは無かった。いつも、一人だから。誰かと居たところで、わたしは隣にきてくれる人間を壊してしまうから。だから、一人でなければならなかった。
ただ、自分を『不幸』と信じて振舞っていればよかった。そうすることで、全て上手くいっていた。
……たとえそれが、わたしも、パンドラにとっても、不本意な結果だとしても……わたしのできる生一杯を尽くしてきた。それが、誰かを傷つけると知っていても、大惨事を起こしてしまうより、ずっとマシだと信じてやってきた。
…………それなのに。
わたしの隣には、今まで感じた事の無い感情で接してくれる人が居る。
……『不幸』の傍で……壊れることなく、そこに居る。並んでいる私が疑ってしまうほどに、自然な形で。
「……パンドラは……四葉の中に入った」
里亜たちの行ったことを思い出しながら、わたしの隣に居てくれる須山来歩に小さく告げる。
他人にはどう映っていたかはわからないが……わたしたちは対を成す存在ではあるものの、同じパンドラだった。なので、青い鳥となったパンドラの行方がどこにあるのか、わたしにはちゃんと理解できる。
……それが耐えられなかった。
本来なら忌み嫌われる立場にあるわたしが、幸せになるべきパンドラを、ただ影から見ることしかできなかった。『不幸』を打ち消す為に、四葉の中に入った。そうすることで、私から生み出される『不幸』を起こさないために。
見守ることしかできなくて……しかも、パンドラはこの場からいなくなってしまった。それが辛くて、逃げ出してきた。
廊下をひたすら進んだ先にある行き止まり。そこはガラスから透過される夜空の光景が映っているだけ。わたしの『不幸』の黒と同じ色で塗りつぶしたかのような、夜の景色が浮かぶだけだった。
「もし、里亜の案のとおりなら、確かに、今はまだ『不幸』は起こらない。でも、それだけだ……わたしが居る限り、『不幸』は無くならない」
「そうかもしれないね」
わたしの呟きに、わざわざここまでついて来てくれた来歩は小さく頷いた。
……なんで、わたしなんかを追って来たんだろう。わたしに構うより、四葉たちと話ししてる方がずっといいというのに。これまでわたしの招いてきた苦難から、やっと逃れられるかもしれないのに。
「でも……少なくとも、今は大丈夫。それに……黒花さんが居てくれる限り、『不幸』は無くならなくても、起こらない。それで十分だと思うけどねぇ、俺は」
来歩の言葉はこの上なく心地よくて……わたしをかばってくれるかのような、暖かいものだった。
今は大丈夫。そんな言葉、一度も使ってくれた人、いなかった。ずっと、「お前がいるせいで」なんて言われ続けていたはずなのに。だから……こんなこと思うのは間違っているのかもしれないけど、落ち着かないんだ。
「……じゃあ、わたしはどうなる? 不幸そのもののわたしは……どうすればいいんだよ」
俯き加減で、きっと、訊かれても困るだけの疑問を投げかけてしまう。
これからのことなんて――それも、平穏のことなんて――わたしは考えたこともないし、どのようなものなのかはっきりとしたイメージさえ沸かない。
それに、この体になってから裁や里亜たちのような『人間らしさ』に接してしまったから、怖いんだろう。ドッペルゲンガーとして、ただ『人間らしく振舞う自分』『他人の移し鏡になりきる自分』を体験してしまったから。……本当のわたしが、わからない。わからないから、怖い。
来歩の話してくれたとおり、感情的になれたらそれが『わたし』と呼べるのだろうか? そんなこともわからない。
それにわたし……ずっと遠ざけて、けれど憧れ続けてきた人間を知りつつあるんだ。昔は、それが望みだったはずなのに。
「わたしは……これから、どうしたらいいんだよ」
これが、ずっとみんなを苦しみ続けてきた裁きなんだろうか。
膨大であって虚無な時間。そして、人間の姿形であっても、人間としては存在していけない『不幸』であること。
……あぁ、なるほど。これはわたしにとっての裁きとしてはうってつけなんだろうな。いつまでも何もできないまま、時を過ごせというのだろう。
心中で絶望感に浸っていると、来歩は不意に嘆息を吐き出した。
「パンドラ……さっきも言ったけど、君は『人間』でいいんだよ」
そう、わたしに話してきてくれて。……さっきも、わたしを人間と呼んでくれた。……でも。
「…………そうだとしても、根底は変わらないだろ」
少し、感情的な声を発してしまう。
今思えば、人間という甘い響きがわたしを狂わせていた。来歩にはきっと、そういう気は無かったんだろう。わたしが人間でありたいと望んでいることを胸のうちに秘めていて、それに気付いてくれた。だから、来歩はわたしを人間と呼んでくれたんだ。
そこには悪意めいた感情なんて無いように思えた。少なくとも、私の気持ちを利用しただけだったら、首筋に刃を向けられて平然としていられるなんてこと、在り得ないだろうから。
だから、だろうか。来歩は一度頷いて。
「そうだね。そのせいで、苦しんでるんだからね。……じゃあ、そうだね……」
少しの時間、彼は思案していた。一瞬と呼べるほど短くもなく、永遠に思えるはずもない、有り触れた時間の経過があるだけだった。
その、何気ない時間を経て。
「君が人間だったら……今までの罪を、どうにかした方がいいよ」
……わたしにとって、思いもよらない発言が飛び出そうとは。あろうことか、僅かに微笑みかけてきながら、そう言ってきたんだ。
「え……?」
訳がわからなかった。それって……罪を滅ぼせ、ということなのか?
そしてすぐ、わたしの考えを読み取ったかのようなタイミングで、来歩はその考えを語ってくる。
「確かに、事件の背景は酷くて、仕方が無かったけど……でも、そのせいで傷ついた人もいるからね。特に、裁とか」
……それは、わたしが一番わかっている。この事態の張本人は私で、四葉を全ての基点にしてしまった。生前のパンドラに近い人間だった、というだけで。
その結果、彼女にとって最も近くに居た裁は、この事件で深い傷を負ったといえる。勿論、その過程で来歩も里亜も傷ついているはずなのだろうけれど。
なのに、それを気にもせずに、来歩は続けてくる。
「俺からはなんともいえないけど……もし裁きがあるとすれば、謝ることだと思うね。人間である以上、何もせずに終わることは出来ないから。現実に向き合う必要も、きっとあるんだ」
――なんだよ、それ……。
それは、わたしが思い描いていた裁きの光景よりもずっと明るくて……わたしには、最も不似合いなものだった。
謝ること。……そんなの、考えたことなかった。『不幸』として振舞っていた時間が長すぎたから、謝罪の気持ちは捨ててしまっていたんだろう。その代わり、それらの気持ちはずっと、抱えてくるしかなかった。
わたしは、どんなに頑張っても『不幸』だから。わたしがどんなに謝りたくても、謝ることなんてできなかった。だから、胸を締め付けられるような痛みを抱えて、罪悪感を背負い続けてきた。
……だから、今までずっとやりたかったこと、忘れてたんだ。
ココロが痛かった。でも、この痛みは、なにかが違った。……来歩を刺したときに感じた、苦しくて仕方ない痛みとは違って……こう、『想い』の内側から、熱を伴った何かが押し寄せてくるような、そんな痛みだった。
「で、もしその罪滅ぼしが終わったら……そうだねぇ」
まだ、何かあるのか?
わたしは自分の気持ちが酷く動揺しているのがわかって、何をどう捉えればいいのか、混乱していたみたいだ。
だって、わたしの罪がこんなことで終わるわけ無いじゃないか。だから、謝罪だけじゃなくて、もっと別の何かが来歩にはあるんだろう。
――そう。
「里亜ちゃんがせっかくみんなを助けたんだから、みんなで居ればいいんじゃないのかな」
……そう、思っていたから。
わたしは、声も出せなくなって。
どう答えれば良いのか、知らなくて。
さっきまでの混乱が、進行しているのもわかった。
……彼は、なんて、言った?
……わたしに、どんな言葉をくれた?
…………この、わたしに?
わたしに……みんなで居れば、なんて……わけ、わからなくて。
……だって、わたし、『不幸』だろ?
わたしのせいで……メチャクチャにしたんだろ?
なのに…………それ、なに?
「確かに里亜ちゃんや裁と居るのは、すぐには無理だと思うけど……俺は、パンドラを拒んだりしないからさ」
胸が、痛くて、熱くて……。
「俺でよければ、いつでも近くに来てくれていいよ」
……ずっと、ずっと、切望していた言葉をもらって。
わたしが、悪かったはずなのに。来歩は笑顔でそう言ってくれた。
「…………」
……言葉が出せなかった。ノドに何かが詰まっているみたいで、どんなに頑張っても、反論の一つもできなかった。
本当は、すぐに否定したかった。『迷惑かけたから』とか言って、断ったらどんなに楽だったんだろう。きっと後悔は残してしまうだろうけど、この場から離れる事はできたはずなのに。今まで一人でいたときみたいに、来歩から遠ざければよかっただけなのに。
……なのに、なんで、できないんだろう?
ドッペルゲンガーとして自分を偽ってきたときみたいに、顔を見て飄々と言い切ってしまえばいいだけなのに、顔も上げられない。
……まだ、声が出ない。そうしていたら、いつの間にか瞳まで変になってきた。
熱くて、なんだか目の前がよく見えなくなって……あぁ、もう、わたし、なんで泣きそうなんだよ……。
必死で涙を堪える。そうしていたら、この場から離れることもできなくなって、動けなくなった。わたしの体なのに、命令に従ってくれない。
そんなわたしの傍で、来歩は静かにわたしを見守ってくれている。
……どうしよう……。
こういうとき、どうしたらいいんだろう……。
……何を、口にしたらいいんだろう。
…………わたしは……わたしは、なにを、やればいいんだろう……。
…………。……あぁ、そうだった。
わたし、やることなら、来歩に教えてもらったんだ。
それに、わたしの気持ちを伝えるには……それが、一番なのかな。
そう思ったから、わたしは……動かなくなった体をなんとか解いて、声を出した。
「ごめんなさい……」
……小さすぎて、来歩の耳に届いたのか、さっぱりわからない声しか出なかった。
弱弱しすぎて、真っ暗な夜空に飲み込まれてしまいそうな声しか出なかった。
だけど……動いてくれなかった体が、動いた。
――それを、キッカケに。
わたしは顔を上げて、来歩と向き合えた。
だけど……気持ちを押さえ込むことに費やしていた感情が、溢れ出してしまった。
自分でも理解できないくらい、涙が零れ落ちてくる。それが、次々と流れてしまって、もう、止められなかった。止めたくても、どうにもならなかった。
そして、わたしが今まで溜め込んできた罪悪感の全ても、雪崩のように押し寄せてきた。詰め込んできた箱の鍵が、壊れてしまったみたいに。止めることなんてわたしにはできなくなっていた。
「ごめんなさい……今まで、ずっと……ごめんなさい……。……刺して、傷つけて……さっきも、わたしを止めるために、血を流して……本当に、ごめんなさい……」
なにを言ってるんだろう、わたしは……。
こんな言葉で、ちゃんと謝れてるの? そもそも、謝るってなに? どうすればいいの?
だれか……教えてよ。どうしたら、謝罪ってできるの?
「こんなことで許されなくても……でも、わたし、こんなことしか……考えられない…………ごめんなさいしか、わからないよ……わからない…………」
情けない。涙、出ないでよ……。ちゃんと、声を出させてよ。
……止まって。ちゃんと、来歩の顔を見させて。泣いてちゃだめなのに、謝らないと、ぜんぜん、ダメなのに……。
…………どうしたらいい?
……わたし……これで、いいの?
これで……わたしは、許されるのか?
許してくれるって、どういうこと?
わたし……わたしは……。
「……ごめんなさい……来歩……。……こんなことしか言えなくて…………ごめん……なさい。酷いことをしてきたのに…………なんで、こんなことしかできないんだよ……。…………っく…………こんなんじゃ、全然……ダメなのに…………」
頑張って顔を上げて、水気でぼやける来歩の姿を見つめる。
だんだん声も出なくなって、代わりに、嗚咽しか出なくなってくる。
でも、涙はずっと止まってくれない。
ただ、涙だけ出てくる。
自分でも、どうすればいいのかわからない涙が溢れるだけ。
――そんなとき。
泣いてばっかりのわたしに、暖かい何かがそっと、触れた。
触れた暖かさが、わたしを包んでくれた。
目の前は見えなくなった。真っ暗で、私の『不幸』と同じ色が広がっていた。
それなのに……なんでかわからないけど、心地よかった。
……来歩が、わたしを抱きしめてくれていたんだ。
そう気付くまで、ちょっと時間が掛かった。
声を出す事に気を使いすぎていたし、こんなことしてくれる人、いままでいなかったから。だから、すぐにはわからなかった。
でも、やっぱり「ごめんなさい」を口にしたくて。何度目になるかわからない言葉を繰り返そうとしていた、そのとき。
「ありがとう。……もう、十分だよ」
来歩の声で、そう聞えた。
ありがとうって、確かに、聞えたんだ。
同時に、わたしの頭に何かが当てられたかと思えば、それは何度も何度も往復していて……あぁ、わたしは頭を撫でられているんだと気付くまで、そう時間は掛からなかった。
おかしいな……『ごめんなさい』って言ったわたしが、来歩のたったそれだけのことに、これ以上ない無いほどの嬉しさを覚えるなんて。
……これが、パンドラの求めたものだったのかな。この暖かさが……人も、世界も、みんな好きだったパンドラが、本当に欲しかったのは……こういうの、だったんだろうな。
それを、わたしが感じるなんて……。
――ごめん、パンドラ。……あなたが欲しかったもの、わたしが手に入れちゃったよ。
届く事の無い想いを、そっと夜空に預けた。
青空が好きだった彼女に、夜空へ気持ちを届けてもらうなんて、おかしなことだと思うけど……教えてもらったんだ。夜空も青空も、同じ空だって。
夜空には青空みたいな明るさはないけど……でも、届くよね? 空はどこにだって繋がっているから。
――まず、四葉に謝ろうかな。今までずっと辛い目に遭わせてきて、今日だってわたしの怒りを抑えてくれて……自分でも不得意な武器の創造なんてやらせちゃったし。わたしと同じ『不幸』の体にしてしまった。……だから、ごめんなさいって、最初に謝ろう。
――次に、里亜か。一番わたしを嫌っていたみたいだけど、結果的にわたしまで救ってくれたんだから。迷惑もいっぱいかけて、彼女にも『不幸』を移して酷い目にあわせちゃったから……里亜の前に現われるのはちょっと怖いけど、謝らないと。
――最後に、裁。……来歩が言ってたし、わたしも実感できる。彼は、この中で最も傷ついた人だ。きっと、私は恨まれてる。四葉を死に至らしめて、目も当てられないほど追い込んでしまった。……正直、裁と出会うのが怖いんだ、わたし。慣れてしまったはずの憎悪の瞳を、また向けられてしまいそうで、勇気が足りない。怖くてたまらない。
……でも、どんなに時間が掛かっても、やり遂げないと。それがわたしの罪滅ぼしだから。
涙を零し始めていたときから、知らずの内に握っていた掌が、自然と解けていた。
いつの間にか瞳は次第に泣くことを止めていて、自分でも驚くほど、心が静まっていた。さっきまで、どうにもならないほどの感情が湧き出してきて仕方なかったのに。
そして、「ごめんなさい」という言葉を口にすることもなくなっていた。
でも、来歩はまだ私を慰めてくれていて……それがなぜか急に気恥ずかしくなってしまい、つい、彼を軽く突き飛ばしてしまう。
……なんで慌ててるんだ、わたしは?
わたしがやったことに、来歩はキョトンとした表情を浮かべていた。
けど、今のわたしの顔を見て、それから、微笑みかけてきながら。
「もう、大丈夫かい?」
「……うん」
だから、なんでわたしの方が心配されているんだよ。立場逆だろ。
だけど、今度は交わす会話がなくなってしまったらしく。二人揃って口を開くこともできず、また、静寂が訪れてしまった。
なんだか知らないけど、すごく、居辛い。
音の無い時間だったら、今までも何度だって味わってきたはずなのに、なんでこうも誰かと居るのがやりづらく感じるんだろう? 四葉と居た時は自分を偽ってきた部分もあったから、まだ楽だったのに……。
こういうとき、なんて声をかければいいんだろう? ドッペルゲンガーとして振舞っていたときなら、適当なことを言って流せばいいだけだったんだけど……自分から意味を持った言葉を探すのが、こんなにも大変だったなんて思っていなかった。
……こういうとき、なんて言えばいいんだろう。
また、謝ればいいのか?
……また、ごめんなさいって言えばそれでいいのか?
…………もっと、他に言葉がないんだろうか?
…………。…………あ。
そういえば、わたしは教えてもらったはずじゃないか。ひょっとしたら、「ごめんなさい」と言うより、ずっとよさそうな言葉を。
……こういうときに使うべきなのか、よく分からないけど。
「来歩」
無音の世界に、わたしの声を落とす。
来歩は話し掛けたことに気付いてくれて、わたしに視線を預けてくる。
それを理解して……わたしはふと、ガラスの向こうの空を目に映した。
わたしの『不幸』を反映させるための夜。そこには真っ暗で、箱に閉じ込められたように、光なんて無いはずだったのに。
わたしは……そこに、月明かりをみつけた。
……こんなに明るかったんだ、夜空って。
明るいのは、青空だけだと思っていたのにな……。
この色を知っていたら、わたしの『不幸』は真っ暗な色にならなかったのかもしれない。見慣れてしまった血の色とか、そういった色が『不幸』として反映されていたのかもな。
ずっと、初めて綺麗だと思えた夜の景色を眺めていたいと思った。でも、来歩に話し掛けておきながら、それはさすがに酷いだろう。
だから、やっとわたしは彼に向き合う。身長差のせいで、見上げなければならない顔を瞳に映す。
そして……。
わたしは、ドッペルゲンガーのときに作りすぎた偽りの笑顔なんかじゃなくて、忘れていた自分自身の笑顔を作ってみる。
わたしは笑っていられるんだろうか?
それは、ドッペルゲンガーとしてのわたしと、混同してしまっていないだろうか?
そんなこと、わたしにはわからない。
きっと、この笑みはパンドラや四葉のものより歪で、人を魅了する力は持っていないだろうけれど。
わたしは、わたしにできる限りの表情を浮かべて。
「ありがとう」
彼がわたしにそうしてくれたように、謝罪の言葉なんかじゃなくて、『ありがとう』を告げた。
それが、謝るよりも心地よいものであってほしい。そう願いを込めながら。
――わたしの知らなかった、明るい月夜の下で。